しいたげられたしいたけ

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懲りもせず二冊

「私」は脳のどこにいるのか (ちくまプリマーブックス)

「私」は脳のどこにいるのか (ちくまプリマーブックス)

  • 澤口俊之『「私」は脳のどこにいるのか』(ちくまプリマーブックス
    • 第二章の丸々一章を費やして、二元論(=「心」と「脳」あるいは「精神」と「物質」は別物という考え方)に反論している部分が、類書には例が見当たらず興味深かった。まあこれは邪道的な読み方だと思うが、この著者がこれだけ反論に紙幅を割いていることが、かえって私には「ああ、そういう見方(=二元論)もあるんだな」ということに気づかせてくれたのと、著者が反論の足場とする自然科学的立場というものが、広大な適用範囲を誇りまた過去に赫々たる成功を収めてきたとは言え、やはり限界を持つものであることを改めて思い起こさせてくれた。
    • 自然科学には、客観性、再現性などいくつかの厳格なルールがあり、それを踏み外したものは自然科学とは呼ばれない。だからもし過去に一度しか起きなかったことがあれば、それは自然科学の対象とはなり得ないのである(「じゃあビッグバンはどうなんだ?」と反論されるかも知れないが、あれは仮説であり自然科学の周縁に属する)。で、「自我」とか「意識」といったものを自然科学の枠内でどうやって扱うのか、どうやって扱えるのかが、あいかわらず私には見えてこないのである。特殊な脳細胞を取り出して「これが人間の自我です」と言われたとしても、オシロスコープに写った特殊な脳波の波形を見せられて「これが意識です」と言われたとしても、それが何かの問題を解決したことになるとは思えないということだ。
    • 細かいことだけど、著者は大脳皮質が48個の「領野」に分類できることを紹介し、「領野」には1から52まで番号がついているので52個あると思われがちだが欠番があるので正しくは48個であり、52個あると述べた似非(と著者は書く)科学書は信用してはいけない、と言い切ってしまっている(p90)。そのわりにはp77でフッサールはフランスの哲学者だなんて書いちゃっている(正しくはドイツ)。だから信用しないとは言わないが、一応突っ込んでおこう。

ドン・キホーテのピアス (扶桑社文庫)

ドン・キホーテのピアス (扶桑社文庫)

  • 鴻上尚史ドン・キホーテのピアス』(扶桑社文庫)
    • 再読。この人のセンスは大好きである。しかも読みやすい。読みやすいだけあって、その後ずいぶんとこの本に影響を受けていることに気づく。例えば本書中で勧めらている本に、そこそこ目を通しているとか(おんなじようなことを二日前にも書いたな)。
    • 本書に収録されたエッセイが雑誌に連載されたのは1995年。阪神大震災オウム真理教事件の年である。森達也氏の指摘のとおり、あの年日本はどこかへ向けて大きくカーブを切ったのだなという感を強くする。9.11以降のアメリカのように…