しいたげられたしいたけ

拡散という行為は、元記事の著者と同等以上の責任を拡散者も負う

永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

「なぜぼくは存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」の二つの問題を扱った哲学入門書。解答は、ない。哲学とは「問題が存在する」ということを示すものであって、問題に解答を与えることではない、というのが著者の立場である。
このところ脳科学の本を何冊か連続して読み、自然科学が意識とか自我とか言われるものを解明できるのか、というよりどのように「解明」したら「解明」したことになるのか、ということを疑問に感じていたが、ちょうどタイムリーにこの本に出会うことができた。もしその疑問を定式化できたら、そのこと自体に価値があるのだろう。
改めて考えてみれば自然科学の「客観性」「再現可能性」などのルールは、この科学から「自分自身」を排除するための仕組みである。「自分自身」は「客観」からもっとも遠い存在であるし、「自分自身」を「再現」するとはどういうことなのだろうか?「自然科学で自分自身を扱う」という命題には、最初から自己矛盾が含まれているのである。
しかし、したたかで柔軟性に富み、限界があるとしてもその限界のぎりぎりまで迫ろうとするのも自然科学である。例えばビッグバンその瞬間やブラックホールの内部は自然科学の対象外であるが、ビッグバン直後ぎりぎり、ブラックホールの事象の境界線ぎりぎりまで解明しようとするのが自然科学である。そもそもビッグバンやブラックホールの存在をつきとめたのは自然科学ではないか!自然科学の従来の枠組みが「自分自身」の解明に適切でないことが明らかになれば、自然科学は自らの枠組みを組み替えて、再びそれに挑もうとすることであろう…
話が大幅にずれたので『〈子ども〉のための哲学』に話を戻すが、後半の「なぜ悪いことをしてはいけないのか」は、なんとなく魅力を感じなかった。このテーマを扱うならなぜ「自己愛」というテーマをからめないのか、というのが私の不満である。そうした方がずっと面白くなるだろうに。まあ哲学者は「問題」をできるだけ結晶のような純粋な形で取り出したがるのだろう。
この本も執筆は1995年。妙な偶然が続く…