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野矢茂樹「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」(哲学書房)I

『論理哲学論考』を読む

『論理哲学論考』を読む

5〜6日かけて、やっと一通り読んだ。『論理哲学論考』自体は読んだけどワケワカランかったが、この本ならなんとか理解できる。で、『論理哲学論考』に何が書いてあったのか、なんとなくわかったような気がした。「語りえぬもの」とは何か、という核心についても、わかったような気がした。錯覚かもしれないけど、わかったような気がしたのだ。
暴挙だが、自分の言葉で言ってみるぞ。ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」とは何か?彼の師匠のラッセルの「理解できるということが私にはもっとも理解しがたい」という言葉が近いのだ。数学の本を読んでいて、例えば「体Pは体Qと同型である」なんて感じのことがサラっと書いてあるようなところに出くわして「おいおいそれじゃわかんねーよ。なんでPとQが同型なのか、もっと説明してほしーよ」と思ったとき、実はソレがアレだったのだ!あるいは逆に、これは私の実体験であるのだが、バイトで某専門学校で教えていたときに、「pかつq」(p∧q)を説明するのにホワイトボードにベン図のマルを二つ描き「この重なった部分がp∧qだ」と説明したのだが、授業の後で受講者の一人が「p∧qはわかります。ベン図もわかります。だけどp∧qとベン図が同じものだということがわからないのです」という質問をしてきたことがあった。そのとき私は文字通り絶句したのだが、絶句して当然だったのだ。まさしくそれこそが「語りえぬもの」の実物見本であったのだ!!
(『論理哲学論考』がわかっている方へ。私の書いたことが間違っていたら、ぜひコメントください。ぜひ指摘してください。『論理哲学論考』がわかっていない方もしくは『論理哲学論考』を知らない方へ。上記の記述だけを読んで『論理哲学論考』をわかろうなんて思わないでください。わかりたいと思ったらぜひ実物を読むかこの野矢さんの本を読むかしてください)
そしてウィトゲンシュタインの独我論についても、わかったような気がした。デカルトは例の有名な著作(『方法序説』だよ!)の劈頭で「理性はこの世でもっとも平等に分配されている」と楽観的なことを書いているが、もしそうじゃなかったら、どうしたらいいのか?いや、たぶん現実はそうじゃないのだ。数学に関してだけでも、インドが生んだネ申ラマヌジャンとか、あるいは一を聞いて十どころか千も万も知る超ド天才フォン=ノイマンとかと、私のような凡庸な人間が平等であるわけがない。つか理性は一人一人違っているのかも知れない。顔が違っているように理性も違っていて当然なのだ。そしてウィトゲンシュタインは、その違いを埋めることができるのかできないのか、埋めるというと大げさすぎるのであれば橋渡しをすることができるのかできないのか、少なくとも言語という手段を用いては、それが不可能だという結論を導いたのだ!
で、『論理哲学論考』が何の役に立つのか、哲学が何の役に立つのかっつーことだが、これは昔から繰り返し言われているように、何の役にも立たないのだ。哲学をする人間は、哲学をしないではいられなかったのだ。思いっきりぶっちゃけて言ってしまえばウィトゲンシュタインはヘンなヤツだったのだろう。周りからヘンなヤツと言われていたのだろう。そして孤独だったのだろう。悩んでいたのだろう。そして自らの悩みを解消できればよし、解消できないのであればなんとかそれと折り合いをつけるっつーかコントロール可能化するために、格闘した経緯こそが、哲学の著作物なのだ。だから、これは野矢氏の指摘の受け売りなのだが、ウィトゲンシュタインの関心の持ちどころと野矢氏が興味を抱く点は、ずれている。私が面白いのではと思ったところも、当然ウィトゲンシュタインとも野矢氏とも微妙に違っている。ウィトゲンシュタインは他人の興味を抱いた点が自分の関心の対象とずれていると、徹底的に冷淡だったという。そうなのだろう。それが当然なのだろう。
五つ星。書影つけます。
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