しいたげられたしいたけ

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カント『純粋理性批判』を読む

をいをい、いいのかよホントに始めちゃって…
最初くらい、思いっきり受けを狙った進め方をしてみようと思う。無理をしても続かない。無理をすると、そのときだけは頑張れちゃうけど、結局長続きしない。これは経験が教えてくれる鉄則である。
そして万が一ラッキーにも長続きすれば、自然にスタイルというものが出来上がるはずである。このブログだって、始めた頃と今ではずいぶんとスタイルが違っている。始めたばかりの頃は、身辺雑記ばっかりだったし、pya!ネタもなかった。読書ノートは、当初「一行書評」と銘打っていたが、本当に一行で済んだことは一度もない。
で、篠田英雄訳『純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)』より「第一版序文(一七八一年)」の、昨日(3/30)の引用部の続きから始めるのである。
「序文は飛ばす」という知恵があることも知っている。だが「30年かけて読みゃいいんだ」と開き直っているので、この極めて有効性の期待できる方法は、あえて採用しない。
本当に昨日の続きからだぞ。えいっ!

 人間の理性が、かかる窮地に陥るのは、理性に責めがあるわけではない。理性は原則から出発する、そしてこれらの原則は、経験の経過においては必ず使用せられねばならないものであると同時に、この使用は経験によって十分に実証せられているのである。

(上掲書p13)
???
なんなんだこのわからなさ加減は?
だが開巻一ページ目のこと、わからないと言ってもたかが知れているはずではないか?外国語ではない。新しい概念や用語が登場しているわけでもない。しょせんは文の読みづらさだけである。つか、わからないことがあった場合、誰しも最初は「何がわからないのかわからない状態」である。そこへ「どこまでがわかって、どこからがわからないか」という線引きを行うと、それだけでわからないことが半分に減るものだということを私は知っている。
まず最初の文は、理解可能だ。「人間の理性」が、陥るという「かかる窮地」というのは、昨日の引用部にある「理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題」のことなのだ。もっと言ってしまえば、私はここに「宇宙の果てはどこか?」「時間の始まりはいつか?」「自分とは何か?」と言った具体的な文章を重ねている。
で、それは「理性」自身のせいじゃない、と言っているのだ。
どうだ、わかるじゃないか?
で、次だ。「理性は原則から出発する、」
ん?なんで「。」(マル)じゃなく「、」(テン)なんだ?
いや、これは受けを狙った重箱の隅突っつきです。次行きます。
「そしてこれらの原則は、経験の経過においては必ず使用せられねばならないものであると同時に、この使用は経験によって十分に実証せられているのである。」
本丸はこれだな。
いかにも怪しげなのが「経験の経過」という言葉である。翻訳文にときどきある、日常語としては一生お目にかかることもないような言い回しだ。敵の本丸の天守閣みたいなものである。
「経験」が「経過」するって、どういうことなのだ?経験というものは日々の生活によって積み上げられる。ここはさらりと、「我々が日々の生活を送る上において」と読み替えて、何か問題があるだろうか?
全体を別の言葉で言い換えてみよう。
「我々は日々の生活を送る上において(無意識にでも)いろんな「原則」を使っているし、またその「原則」が使用に耐えること、「原則」を使ってオッケーなことは、ほかならぬその日々の生活に支障が出ないことによって、十分証明されている」
うん、なんとかなりそうじゃないか。
という訳で、以下、次回。はぁ…(ため息