しいたげられたしいたけ

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三浦俊彦 『ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学』(岩波新書)

うわっ、これは面白い!ラッセルは、なんとなくウィトゲンシュタインゲーデルの引き立て役みたいな感じで語られることが多い、損な役回りの人という印象があったけど、こんなすごい哲学者だったんだ!まぁ歴史に名を刻む大学者に、すごくない人なんているわけないが、自らの不勉強に恥じ入るほかありません。文句なしの私的五つ星。
有名なラッセルのパラドクスは、本書では第3章に登場する。読みどころも第3章以降と思われる。それ以前の箇所には、例えば「ヘーゲル的一元論への反論」(第2章)のような、読み通すのにちょっと骨の折れる箇所もあるけど、なんとか第3章までたどり着くべきである。
ラッセルのパラドクスとは、次のようなものである。
集合Rを、「自分自身を要素として含まない集合をすべて集めた集合」と定義する。RはR自身の要素として含まれるか?
もしYESだとすると、Rは自分自身を要素として含んでいるので、Rの定義に反するからRはRから除外されなければならない。
もしNOだとすると、Rは自分自身を要素として含んでいないので、Rの定義によりRはRに含まれなければならない。
本書には、このパラドクスを回避する方法が二つ紹介されている。一つは「悪循環原理」と呼ばれるルールである。悪循環原理とは、うんと簡単に言えば、その集合の全体によってしか定義できないような集合を認めないというものである(本書p44)。ところがこの悪循環原理を導入すると、「排中律」すなわち「すべての命題は、真か偽かのどちらかである」という論理学の基本命題までが、無効になってしまう。本書はこれを「強すぎる薬を使ったために、病気が治って寿命が縮まってしまったようなものだ。」(p53)と表現している。
で、もう一つとして出てくるのが、これも有名な「タイプ理論」である。個々の存在をタイプ0、タイプ0を要素として持つ集合をタイプ1、タイプ2を要素として持つ集合をタイプ2…と階層分けをおこなうのである。こうすると、R=「自分自身を要素として含まない集合を集めた集合」は、要素となる集合の一つ上のタイプに属するので、その要素とは異質な存在となる。つまりRは自分自身の要素とはならず、パラドクスは生じない。めでたしめでたし。
しかしタイプ理論はこれで用済みではなく、こうした「タイプ分けによる分析」こそが、我々の日常言語に含まれていながら容易には気づかれなかった「タイプの混同」を容赦なく抉り出して白日の下に晒し、のみならずラッセル独自の存在論の世界に我々を誘うのである。
ほんの一、二例だが、本書p104における日本語の助詞「は」と「が」の使い分けに関する考察であるとか、p109の「二十世紀末日の日本の大統領は、女性である」という文は真か偽かという問題への明快な解答であるとか、とにかく面白いです!いちおうアウトラインだけ書くと、前者は、「犬は吠える」とは「犬というものが存在して、それは吠えるものだ」という具合に、「は」には主題を取り立てて示す機能がある、という感じ。後者は、「あるxが存在して、xは二十世紀末日の日本の大統領であり、xは女性である」と分析される。そのようなxは存在しない。従って偽。ただし元の文の一見否定に見える「二十世紀末日の日本の大統領は、男性である」も、やはり同様の分析により、偽。
そして本書の「本当の」読みどころは、さらにその先、章で言うと第6章の後半以降だと思う。良質の哲学書を手にしたときに体験できると言われる、言葉による「存在」との格闘の片鱗を、味わうことができます。哲学は格闘によく喩えられるけど、本当にそうだと思う。ただし私の哲学の実力は白帯以下か通信教育レベルなので、とてもその味わいをここに再現することはできませんが…