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カント『純粋理性批判』も読む

前回は篠田秀雄(訳)『純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)』の「第一版序文」の、p15前半まで読んだ。カントの生きた「現代」において、形而上学が一旦「倦怠とまったくの無関心」のどん底まで落ちたことが述べられている。
上掲書p15後半では、だいたい次のようなことが述べられている。
しかし形而上学のような、本来人間が無関心ではいられない性質のものに対して、いくら無関心を装っても無益でないか。なぜ無関心を装おうとするのかということこそに、注意を払うべきである(p15の10〜16行目を乱暴に要約)。
だがこの形而上学に対する無関心は、形而上学に対する次のような要請の姿を変えたものに他ならない、とカントは言うのである。
「法廷」という、またまたわかりにくい比喩が登場する。第一版序文の中では、「競技場」の比喩(p14の1行目。形而上学のこと)、「女王」の比喩(p14の3行目他。やはり形而上学のこと)に続く、三つ目の比喩である。
次のような「法廷」を設けよ。

即ちこの法廷は、理性の要求が正当であれば理性を安固にし、これに反して根拠のない不当な要求は、これを強権の命令によってではなく、理性の永久不変な法則によって棄却し得るのである。そしてこの法廷こそ純粋理性批判*1そのものにほかならない。

(上掲書p15〜16)
ついに「純粋理性批判」という単語が登場しました!
「よっ、中村屋!」と声をかけたくなりそうなところです。
だけど、よく考えると、議論の運び方に少し無理があるんじゃないの、と、少しチャチャを入れたい気もする。
つまり、形而上学の人気の落ちたことは、形而上学に対するある種の期待の表明だ、と言うわけでしょ?
それがアリだったら、形而上学に限らず人気が落ち目の対象に対してなら、何にだって使える理屈になってしまうんじゃないだろうか?
例えば、プロ野球の人気が落ちたことは、プロ野球に対する「もっといい試合を見せろ」という要請の表明にほかならない、とか。
プロ野球は今年はWBCとかがあってわりと出足好調みたいだけど、人気が落ちっぱなしで結局最後まで浮上できなかったものはいっぱいある。
唐突に思いついたのは、「花柳小説」という小説のジャンルである。これは私小説のさらに一区分で、作者とおぼしき主人公が芸者遊びをするさまをえんえんと描いただけの小説である。今日では絶滅状態だが、志賀直哉の『暗夜行路』の前半の一部などにその片鱗がうかがえる。
花柳小説に対する無関心もまた、花柳小説に対する期待の姿を変えたものなのですか?
という無益な突っ込みはさっさと忘れて、先に進む。

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

*1:原文には傍点あり