しいたげられたしいたけ

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カント『純粋理性批判』も読む

篠田秀雄(訳)『純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)』のp16に、原注がある。
前ページの「判断力」という語にかかる注釈である。判断力という語は、「形而上学に対する無関心は、軽薄な考えの結果ではなく、見せかけの知識に釣られない現代の成熟した判断力の結果だ」という意味の文脈で用いられている。現代というのはもちろんカントの生きた時代のことである。少し前にニュートン(1642〜1727)やライプニッツ(1646〜1716)が活躍し、数学・物理など自然科学が近代的な発展の曙光を迎えた時代である。なおカントの生没年は1724〜1804。
で、カントは、現代の考え方は浅はかであるとか言われるが、根底のしっかりしている数学などの自然科学に対しては、そうした批判があてはまらないどころか、従来の評価をはるかに凌駕しているくらいである、という意味のことを、原注の前半1/3で述べている。
わかりにくいのがその次の部分だ。

その他の種類の認識においても、取りあえずそれぞれの原理の修正に配慮を致しさえすれば、まったく同じ精神が発揮されるであろう。しかしかかる修正が行われない場合には、無関心と懐疑、また最後には厳正な批判のほうが、むしろ徹底的な考方を証示することになるのである。

(上掲書p16)
???
こういう一読して意味の取れない文章が次から次へと出てくるから、ぜんぜん先に進まないのであるが…
「その他の種類の認識」って何だ?対比されているのが自然科学(本書では自然学)なのであるから、自然科学以外の科学と考えるのがよかろう。そう言えば「科学」という言葉が一般的に使われるようになったのは比較的新しいことで、ニュートンは自分のことを「自然科学者」とは考えず「(自然)哲学者」だと考えていたというのは、わりと有名な話。
そう考えると、この「認識」という語を「科学」と置き換えることは、そんなに無理のあることではないと思われる(ホントかどうかは知らないよ!私は学者でも専門家でもないからね)。
特にこの文脈においては、それをさらに「哲学」であるとか「形而上学」であるとか、さらに限定した言葉に置き換えてもいいのかも知れない。
「まったく同じ精神」というのは、その直前の対応する部分を探すと、数学や自然科学が享受している「根本的であるという名声」のことのようだ。
そうでなければ無関心と懐疑のどん底に沈んでいたほうがマシだと言い切っているのである。
すなわちカントはこの部分で、形而上学の根本原理に適切な修正を施せば、数学など自然科学のような名声が期待できる、と言っているのであろう。
こうして分析してみると、上記の引用部分が読みづらかった理由は…
「その他の種類の認識」=自然科学以外の科学
「まったく同じ精神」=自然科学が享受しているような名声
という語句の対応関係を、即座には読み取ることが困難だということに尽きるように思われる(違いますかね?>誰か)。
原注の後半1/3では、こうした批判は一切のものが受けなければならない(つまり根本原理への適切な修正を受けなければならない)、ところが宗教はその神聖によって、立法は権威によって、批判を免れようとする。だけどそれでは自分で自分に疑惑を招くのは当然で、理性からの尊敬を受けることはできない、という意味のことを言っている。