しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

北村正裕『エヴァンゲリオン解読―そして夢の続き』 (三一書房)

エヴァンゲリオン解読 新版―そして夢の続き

エヴァンゲリオン解読 新版―そして夢の続き

エヴァ関係の画像を探していて、たまたまこの本の表紙の画像を見つけ、読んでみたくなった。

「予定をひとつ繰り上げる」とはどういうことか?/「初号機による遂行」とは?/ゼーレとゲンドウの補完計画の違いと共通点は?/リツコは零号機のコアの秘密を知っていたのか?/互換試験のとき零号機からシンジに流入したレイのイメージの正体は?/まさか……いえ……そんなはずないわ」とは?/第弐拾参話での「このことは極秘とします」とは?

本全体の約80%を覆う太い帯に印刷されている「謎」の数々である。これで全体の1/3ほどである。
著者の肩書きは童話作家だが、エヴァに大ハマリした人で、「あとがき」によると完結編を観るために映画館に12回も足を運んだそうである(p181)。また、ビデオソフト版とテレビ版の違いまで詳細に比較検討している。
いや、エヴァはハマるのだ。そしてハマるとヤヴァいことは、知ってはいたのだ。ライターの伊藤剛氏がエヴァに危ないハマリ方をしたのがきっかけで、元師匠の唐沢俊一氏を相手に訴訟沙汰にまで及んだことを、別冊宝島『サイコさんからの手紙』や今はなき「ザ・バトルウォッチャー」で知っている。
本書を一読し、著者は、この本を書かないではいられなかったのだろうな、ということは、感覚的によくわかった。
だが、率直に言って読者たる私は、快刀乱麻を断つ的な爽快感を得ることはできなかった。著者がこだわり、解明にエネルギーを費やしていることが、どれもさして重要とは思えなかったのだ。それどころか、著者が反論するために紹介している主張に、むしろシンパシーを感じるケースが多かった。例えば「『エヴァ』にあるのは、謎ではなく、矛盾である」(p161)とか、「作者からの直接的なメッセージは、「オタクによるオタク」批判」(p123)だとかいった言説に、著者はかなり力を込めて反論しているが、私は正しいと思う。「『エヴァ』の中に、無駄な台詞はひとつもない」(p67、p86。p121にも同じ意味の言葉が)という本書のcentral dogma(中心教義)は、誤りなのである。エヴァの台本は、他のテレビ番組と同じ程度に杜撰である。それは、作家や監督が思う存分手を入れられる小説や映画の脚本と違い、時間的な制約が極めて厳しいテレビ業界の宿命で、仕方のないことである。シャーロキアン達のゲームのルールだというのなら話は別であるが。
つまるところ、私は著者や伊藤氏ほどエヴァにはハマっていなかった、ということなのだろう。もし私がエヴァを研究するとしたら、この本のような、精密なエヴァ世界を復元しようとする方向には向かわないであろう。そうではなく「なぜエヴァはハマるのか?」「なぜ人によってかようにハマり具合に差が出るのか?」を論じてみたいものだと思う。
私が見るところ、エヴァの魅力は「世界の終わり」と「やや露骨な性描写」の二点に尽きると思う。文字にするとあっけないほど単純なことだが、実は同じ系列に『最終兵器彼女』『伝説巨神イデオン』『宇宙戦艦ヤマト』などが存在し、源流は『デビルマン』さらには『ハレンチ学園(第一部)』までは遡れる(もっと前があるかも知れないが)というのが私の考えである。
引き合いに出した作品の一つ一つと比較を始めるとキリがなさそうだから、一応、備忘的にメモだけ書いとくことにする。『サイカノ』の大傑作シーン「最後の学園祭」とか、アスカ&シンジの鼻つまみキスと『イデオン(発動編)』のヘルメット越しキス(未遂w)の比較とか、初号機のシルエットと『デビルマン』の造形の相似とか、特に「ハレンチ大戦争」という、ちょっと考えると破綻しまくりの「んなことあるわけねーだろ!」だが後進に与えた影響は計り知れない革命的コンセプトは、どっかで論じておきたいものだ。
要するに、エヴァがその人にとって絶対的なもの=比較する相手のないもの=only oneであるか、それとも相対化可能なもの=比較する相手のあるもの=one of thenであるかによって、ハマり方の程度は違ってくるという、書いてしまえば実に平凡っぽい結論である。