しいたげられたしいたけ

ルワンダ虐殺の責任を問われたラジオ局DJの弁明「殺せなどとは一言も言っていない。俺はただ、危ないぞと言っただけだ」

坂東性純『浄土三部経の真実』(日本放送出版協会)

浄土三部経の真実 (NHKライブラリー (4))

浄土三部経の真実 (NHKライブラリー (4))

本を読んで何がわかるかっつ〜と、「自分が何も知らない」ということが何より一番よくわかる。
イスラム教など外国の宗教のことを何も知らないので、少しは知らなくてはと、何冊か本を読んでみると、実は自分は仏教のこともまるで知らなかったことを痛感した。
で、一冊ぐらいはと、読んでみた。本書でなくてもよかったのだが、本書を選んだのは、実家が浄土真宗だからである。浄土真宗および浄土宗では、表題の「浄土三部経」を「正依の経典」(p17。根本経典ということかな)としている。
まず気づいたのは、日常用語で仏教用語から出たものが、いかにも多く、かつ元々の意味からずれた用いられ方をしているものが、けっこう目立つということである。
例えば「三昧」とは「心が静まった境地」(p63〜、p343〜他)、「悲願」は(阿弥陀如来の)「慈悲の心から起こった願い」(p129〜)、「不退転」とは「もうそれ以前の段階に後戻りすることのない状態」(p374他)という意味なのだそうだ。「悲願の初優勝を目指して不退転の決意で野球三昧の日々を送る」という文章は、元の意味からするとわけのわからんことになる。
それはさておき本題。仏教の世界観では、人間つか生きとし生けるものは輪廻転生を繰り返し、その苦しみから逃れるために「解脱」つまり「さとりをひらく」ことを目標とすることは知っていた。
ところがこの「さとりをひらく」ことが難中の至難で、なにせ釈迦に長年従者として仕え「多聞第一」(仏陀の言葉を最も多く聞いた者)と呼ばれた阿難(アーナンダ)ですら、さとりをひらいたのは釈迦の入滅後なのである。ネタバレかも知れないけど瀬戸内寂聴釈迦 (新潮文庫)』末尾近くで感動的に描かれている。また本書中でもたびたび言及がある。
ではどうすればいいのか。釈迦によってそれが説かれたのが「浄土三部経」で、思い切って要約してしまえば、釈迦が出現するはるか過去に、法蔵菩薩という修行者が四十八の誓願を立てそれを成就して阿弥陀如来という仏になっている。四十八の誓願とは、生きとし生けるものすべてを救済する願いである。
ところで、この四十八誓願というのが、よくまあこれだけ難しいことばかり思いついたものだと思わずにはいられないほどハードルが高いものばかりなのである。例えば第三願「悉皆金色の願」は、「たとい私が仏となっても、浄土の人びとがすべて金色一色にならなかったならば、正しいさとりを得ません」(p139)。すみません、それ、我々にとってどんなメリットがあるんでしょうか?ヘンなこと言ってすみませんすみません。
つまり、我々は輪廻転生するのだけど、阿弥陀如来を心中に描き念仏を唱えて往生すると、この阿弥陀如来みそなわす浄土に転生することができるのだそうだ。
ここのところが本書の肝要だと思うのだが、人には上品・中品・下品があるが(これも日常語としては元々の仏教用語と離れた意味で使われている言葉)、法然親鸞の先達に当たる中国の僧=善導によると、これらはいずれも凡夫で、たまたま大乗の教えに出会った人が上品、小乗の教えに出会った人が中品、そしてそのいずれにも出会うことができなかった人が下品であるにすぎないという(p334〜)。
だから、浄土への転生が成れば、これは確変リーチで煩悩解脱まちがいなし(我ながらひでぇ形容だ(^^;)ということらしい。ただし「五逆」(父母殺しなどの大罪)と「誹謗正法」(正しい法をそしること)は除外されている(p142〜)。これも知らなかったのだが、キリスト教の神は全能だが、仏教では「仏の三不能」と言って、「因果の法則を変えることはできない」「すべての人をあらかじめ救済することはできない」「仏さまに縁のない人は救済できない(縁なき衆生は度し難し)」(p204〜)と、仏さまにもできないことが、はっきりとあるとされているのだそうだ。ううむ…