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義江彰夫『神仏習合』(岩波新書)

神仏習合 (岩波新書)

神仏習合 (岩波新書)

今年は二度ほど豊川稲荷にお参りに行ったのだが、お神輿の傍らでお坊さんが般若心経を誦すといった、そこでの神仏習合の様子に興味を抱いて、読んでみた。
導入がすごい。現三重県桑名郡にある多度大社の大神が、奈良時代後半に人にのりうつり、次のような託宣を下したという。

長きにわたってこの地方を治めてきた結果、いまや本来の神道からはずれて重い罪業に苦しめられ、神道の報いを受けるところにいたってしまった。いまこの桎梏から脱出したいが、そのためには永久に神の身を離れることが必要であり、仏教に帰依したい

(p11〜12)
本書によれば、八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国いたるところでその地方の大神が、神であることの苦しさを訴え、神の身を離れ仏教に帰依することを求めるようになったという。
これが「人の言葉は神の声」ならぬ「神の言葉は人の声」というものであろうことは容易に想像がつくところであって、果たしてページを追うに従って、地方豪族支配から律令国家支配へ、共同体的な農地経営から荘園制度による土地私有へと、日本の支配制度が変化する中で出現した要請であったことが示される。
本書ではさらに、早良親王(崇道天皇)や菅原道真の「怨霊信仰」(第三章)、神道でいう「ケガレ」と浄土信仰(第四章)、アマテラスの本地(正体)が大日如来で、熊野本社の本地が阿弥陀如来で…といった「本地垂迹説」(第五章)などが扱われるが、当然ながらと言うか予想通りというか、いずれも現実の要請ということで説明がついてしまう。いや、個々の事例は面白いんだけど、それらを一巡りして、乱暴な言葉で言い換えさせてもらうなら「宗教は結局生きている人間のためのものだ」(まあこれもよく言われることではあるが)とでも言うべき結論に達すると、「結局、宗教って何なんだろう?」という、なんだか堂々巡りしてスタート地点に戻ってしまったような戸惑いを感じないではいられないのだ。