しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

福田和也『第二次大戦とは何だったのか』(ちくま文庫)

第二次大戦とは何だったのか (ちくま文庫)

第二次大戦とは何だったのか (ちくま文庫)

冒頭の、こんな逆説めいた言い回しに惹かれて読んでみた。

 私が、自分なりの興味を持って近現代史を眺めたときに、最初に認識させられたのは、第一次世界大戦がもっている意義の大きさであった。第一次世界大戦のもつ、決定的な意味あいに比べれば、第二次世界大戦は蛇足か、せいぜい延長戦程度の意味しかもっていないのではないか。

(p8)
両大戦を「列強による世界の植民地争奪戦の最終局面」と位置づけると、そう考える以外にないのではとは、漠然と思っていたことなのだが、案外これは「有名どころの逆説」(研究者や専門家の間では常識だが、一般にはあまりそうとは認識されていない事実)なのかも知れない。
しかし、読み進めるうちに、どうも著者の世界認識と私のそれとの間に埋めがたいギャップがあることに気づいた。著者は両大戦の結果、植民地支配(特にイギリス帝国を中心とする支配体制)は解体されたと明快に断じているが(p23、51、52他)、植民地的支配構造は中南米や中東の多くの国々で、現在もそっくりそのまま生き残っているのではないだろうか?ご主人様がイギリスからアメリカに、植民地総督府旧宗主国出身者の子孫が中枢を占める現地政府に変わったというだけで、反乱の芽が生じれば容赦なく軍事力で抑圧される('54のグアテマラ、'61〜2のキューバ…これは結局失敗、'73のチリ、80年代のニカラグアエルサルバドル、'83のグレナダ、'89のパナマ、など)。
そのアメリカの世界支配は、目下ようやく相当にガタが来ている。南米諸国は次々と離反しているし、中東情勢は周知の通り。これが植民地構造からの本格的な脱却の予兆なのか、単なる物流のルート変更の試みに止まるのかは、わからない(中南米の貿易の主流はアメリカ経由だったが、これを相互間の直接貿易主流に変えようという試みが、ブラジルやベネズエラを中心に行われている。ベネズエラの「反米大統領」チャベスの言動は注目を集めやすいが、私はブラジルのルラ大統領が相当なしたたか者だと見ている)。
だが後者であったとしても、アメリカが軍事的な覇権を維持するのに必要なコストを調達するには、相当な支障を与えるはずである。アメリカの軍事戦略の二つの特徴である、前線までの水も漏らさぬ兵站線の構築と、核兵器は、どちらもとんでもない金食い虫なのだ。
一部の政治家や論者が強く主張する「憲法改正」とか「集団的自衛権の容認」というのは、つまるところ日本がアメリカの側に立って戦争するための下準備に他ならないと思うのだが、仮にそれが実現したとしても、日本がアメリカとともに「講和のテーブルの勝者側に坐る」ことができるとは限らないと思うよ。
なんだか今回は話題が掲題の本からどんどん離れるな…ま、いいか。