しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

仏教書をいろいろ読んでいる

中村元紀野一義(訳注)『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

であるとか。
周知の通り『般若心経』はごくごく短いものだし、『金剛般若経』も『般若心経』に比べれば長いとはいえ、現代語訳の分量は47ページほど。目を通すだけならそんなに時間はかからない。
でも、何なんだろう、これは??
『般若心経』において仏陀の対話相手は弟子の舎利子(シャーリプトラ)であるのに対し、『金剛般若経』では同じく弟子の須菩提(スブーティ)であるという違いはあるが、「ある概念が提示され即座に否定される。提示された概念の否定も否定される」という繰り返しは、両者に共通しているようである。
ぱらぱらとページをめくって、『金剛般若経』から、たまたま目についた一部を引用すると、こんな感じ。

 それはなぜかというと、スブーティよ、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するものという思いも、個体という思いも、個人という思いもおこらないからだ。また、スブーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく、《ものでないという思い》もおこらないからだ。また、スブーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらないからだ。それはなぜかというと、
 スブーティよ、もしも、かれらの求道者・すぐれた人々に、《ものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。
 もしも、《ものでないものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。
 それはなぜだろうか。

(p55)
とても独力じゃ手に負えないと思って、一般向け解説書の類も読んでみることにした。

渡辺照宏『お経の話』(岩波新書

お経の話 (岩波新書)

お経の話 (岩波新書)

本書には「大乗経典の形態」と題して、次のような記述がある。

 奇跡(稀有〔けう〕、未曾有〔みぞう〕)が多いこと、途方もない数字(コーティ koti ナユタ nayuta、またはガンジス河の砂の数の何倍など)を用いることもしばしば見られるが、門外漢をもっとも悩ますのは同一または類似の句や文や、ときには長い章節の繰り返しである。この類の繰り返しはすでにパーリ文経典においても顕著であるが、大乗経典(ことに『般若経』など)では一層さかんである。

(p127〜128)
う〜む、見透かされとるなぁ(^^;
続きを読んでみよう。

しかし経典というものがただの記述ではなくて、説得ないしは瞑想の準備であるとすれば、同じ文句を繰り返す意図も明らかになる。ただの理解ではなくて、印象づけ、いわば体にリズムをきざみつける効果を予想するからである。東アジアで発達した〝念仏〟や〝題目〟もその類であり、インド教では現在も同じことが行われている。ラヴェル作曲のボレロの効果もそれに似たものである。

(p128)
そう説明されれば、わからないでもない。引用箇所の少し前の部分に、仏陀が瞑想に入ると、その瞑想中の体験は列席者すべてに伝わり、瞑想からさめた仏陀と聴衆の問答は補足的なものに過ぎないと説明している箇所もある(p121)。
喩えは悪いけど、サイケデリックと称される美術や音楽が、実はマリファナLSDなど薬物による幻覚体験を描写しようとしたものであることにも似ているのだろうか?比喩が著しく穏当を欠いてすみませんすみません。

 大乗経典を読んで正直に率直に印象を述べると、〝つまらない〟とか〝冗長〟とか〝退屈〟とか、ときには〝ばかげている〟とか感じることがあるのは事実である。これは多くの宗教の聖典に共通することである。ところが聖典にもとづいて作られた論書は哲学書として、思想の書として読んでも、もとの聖典以上に教えられることが多い。宗教的立場からいえば、それはわれわれの(私の、といってもよいが)信仰が足りないからであると言われるであろう。しかし実際のところ、キリストのことばを記した福音書よりもむしろパウロの書簡の方が判りよいし、アウグスティヌスやトマスやマイスター・エックハルトやルッテルや、あるいはまた現代の神学者の記述のほうがさらにいっそう親しみやすい。実をいうと信仰の乏しいわれわれは、これら人間的な解説や歴史を通してはじめて神のことばを理解するのである。大乗経典についてもそれと同じことが言えよう。実はわれわれはやはりインドや中国の仏教哲学者たちの解釈の眼を通して大乗経典を読んでいるのである。

(p129〜130)
この理屈はこの『お経の話 (岩波新書)』という本自身にもあてはまるようで、わかりやすくて面白いです。ただし私は宗教とか信仰とかからはほど遠い境地で、雑学的知識を得ることを目的に読んでしまっているのですが。