🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戦争反対!Ceasefire Now! 一刻も早い停戦を!

上田紀行『がんばれ仏教!』 (NHKブックス)

「序章」に登場する松本市神宮寺の高橋卓志住職は、日本チェルノブイリ連帯基金というNGOを仲間とともに立ち上げ、ベラルーシの被爆した少年少女を日本に招いて精密検査を受けさせたりしている。また寺に「尋常浅間学校」という毎月一回講演やコンサートなどのイベントを行う「寺子屋」を開き、「校長」に永六輔、「教頭」に無着成恭をすえ、筑紫哲也、谷川俊太郎、山尾三省、小沢昭一、加藤武、マルセ太郎、おすぎとピーコ、灰谷健次郎、立松和平、小田実、井出孫六、中山千夏、柳原和子、佐々木久子、阿川佐和子、アルフォンス・デーケン、鷲田清一、辛淑玉、柳家小三治、入船亭扇橋、林英哲、小室等、森山良子、長谷川きよし、伊藤多喜雄、さとう宗幸といったそうそうたる有名人を招いている。さらに神宮寺のふすま絵は丸木位里・俊夫妻に描いてもらった「原爆の図」で毎年夏には「原爆忌」の法要を営んでいるとか、寺の収支から住職以下スタッフの給与までを寺報で完全公開しているとか、タイのHIV感染者の女性を支援するNGOの立ち上げであるとか、八面六臂という形容がふさわしい活動が紹介される。
高橋住職は29歳のとき、本山の老師のお供をして、一万名以上の将兵が戦死したニューギニアのビアクという島を訪れた。そこで、かつて立てこもる千人近い兵士の頭上からガソリンを満載したドラム缶が次々に放り込まれ、機銃掃射と火炎放射器によって火が放たれ、累々たる遺骨と穴のあいた無数のドラム缶が今も横たわる洞窟に足を踏み入れ大きな衝撃を受けたことが「転機」になったと「第3章」に記されている。
「第1章」では、上座部仏教の国スリランカで実践されている、仏教の教えに基づく農村開発運動「サルボダヤ運動」が紹介される。スリランカ全土の1/3にあたる8000もの村が参加しており、ボランティアによる道路や井戸など農村のインフラ整備が行われている。この「サルボダヤ運動」の提唱者であるアリヤラトネという高校教師は、学生時代に物乞いの老婆の自宅を訪問したところ、彼女の本来の生業であるココヤシの縄をなう仕事で仲買人の取り分が彼女の10倍以上であることを発見し、ココヤシ労働者達に組合を結成することを呼びかけ大人たちも巻き込んで成功させたという。
スリランカの仏教社会はインドほどではないがカースト化しており、特に低いカーストの村は差別もあいまって貧困が深刻であった。上座部仏教において「布施」は重要な功徳とされているが、その対象が「寺」に限定されることによって、村は貧しいのに寺だけは立派であるとか、大きな布施をする金持ちは功徳が多く貧しい人たちは功徳が少ないように思われるといった弊害があった。この「布施」の対象を「寺」だけという限定から切り離し、ボランティアワークに振り向けさせることにより、「自分たちの手による道路の修繕」など目に見える成果が生まれ「無力感」の克服につながったことが「サルボダヤ運動」の成功の秘訣と分析されている。
「第2章」の主人公は、カンボジア難民救済をきっかけにして結成された曹洞宗ボランティア会の有馬実成事務局長(故人)である。有馬師らが1979年に足を踏み入れたタイ領内の難民キャンプは、飢餓と伝染病が蔓延し、目を覆うばかりの悲惨な状況だったという。絶望のさなかにある人々に自分たちは何ができるかを深く自問した有馬師らは、バンコクに事務所を借りて印刷機を設置し、タイ語や日本語の絵本を集めてクメール語の訳文を1ページ1ページに貼り付け、クメール語の絵本に改造することを思いつく。マイクロバスに本を積んで難民キャンプを巡回する「移動図書館」は、「自国語の本が読める」と大変な反響をもたらし、難民キャンプの人々に大きな希望を与えたという。
有馬師は山口県徳山市(現、周南市)の住職の家の生まれで、戦時中に軍需工場のあった徳山が空襲を受けた際に、本堂に続々と運び込まれる棺のうち、線香も花も供えられない明らかに扱いが違うものがあり、駐在さんに尋ねると「あれは朝鮮人じゃけぇのぉ」との答えが返ってきて「なぜ遺体に差別があるのだろう」と子ども心に納得できないものを感じたという。長じて、強制連行で連れてこられた朝鮮人たちの遺骨が、引き取り手のないままあちこちの寺に置かれていることを知ると、「在日朝鮮人・韓国人被災者を考える会」を組織し、強制連行によって軍需工場で働かされ被災した韓国・朝鮮人の遺骨を祖国に埋葬する運動を始める。山口県下のお寺に声をかけると実に500体もの遺骨が集まったが、中には「いや助かった。これを預っていたばかりに、檀家が嫌がって困っていた」と言う住職もいて、有馬師は愕然とする。
そして遺骨の送還運動が一段落した79年に、カンボジア難民問題が起こった。
本書p100〜101より、印象に残った一節を、原文をそのまま引用。

上座部仏教が「小乗」―乗り物が小さくて、大乗仏教が乗り物が大きいというのは本当なのか?そもそも、上座部仏教が、自らが悟りを得る「自利行」のみを行うと批判し、衆生に利益と安らぎをもたらす「利他行」を強調するところから大乗仏教は成立したのであった。そして、上座部仏教に対して自利行のみの利己的な仏教で、救いが小さいと「小乗」の蔑称を与えたのであった。
 現実の社会で苦悩する人々に共感し、自己犠牲をいとわず、他人に奉仕する菩薩道こそ大乗仏教の中核であったはずだ。しかし「小乗」仏教の僧侶でさえ、人々の苦悩に共感し、これだけの行動を起こしているというのに、なぜ大乗の教えを説く日本の多くの僧侶は目の前で苦しんでいる人たちがいても、何も感じず何の行動も起こさないのだろうか?

本書にはこのような魅力に満ちた型破りの仏教者が、さらに4名登場する。
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