しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない。

林壮一『マイノリティーの拳』(新潮社)

マイノリティーの拳

マイノリティーの拳

「第2章 45歳のカムバック」に登場するライアン・バークレーは、3階級を制した元世界チャンピオンだが、ニューヨーク市が貧しい市民向けに格安で貸し出している「プロジェクト・ハウス」と呼ばれる高層アパートに家族と住んでいる。「プロジェクト・ハウス」のエレベーターは小便の猛烈な悪臭が漂い、バークレーが借りている3LDKの部屋には暖房がなく、3つのベッドルームで1つの裸電球を使いまわしている。
米国では、貧困から抜け出すためにボクシングを始め、世界チャンピオンの座に就きながらも、再び貧困層の住むゲットーに戻っていく男たちが、驚くほど数多く存在するという。彼らのほとんどが、黒人やヒスパニックなど、いわゆるマイノリティーである。
「第1章 同じ師を持つ2人のチャンプ」では、元ライトヘビー級世界チャンピオンのホセ・ルイス・トーレスと、元ヘビー級統一世界チャンピオンのマイク・タイソンを育てたカス・ダマトという名トレーナーが語られる。
トーレスプエルトリコ出身のヒスパニックである。トーレスをスカウトしたダマトは、自信を持つこと、精神力を鍛えて恐怖心を克服することの重要性を説くとともに、「人間性を高めなさい」「カネなど二の次だ」と繰り返したという。トーレスが世界王者になったとき、関係者は「トーレスは既に全盛期を過ぎていた」「堅物であるダマトがボクシング界といがみ合っていたため、トーレスは世界タイトルに挑むのが遅すぎた」と陰口をたたいたという。
トーレスは、現役時から引退後、文筆業で身を立てることを計画し、引退後は『ニューヨーク・ポスト』紙に初のスペイン語コラムの連載を持ち、「マイノリティーの視点」からの発言を続けている。
トーレスは、世界王者の引退後の転身に成功した数少ない例の一人と言える。またダマトが「人間性を高めなさい」「カネなど二の次だ」と繰り返したのは、それが道徳的だからではなく、それが自分の身を守るために必要だからだということがよくわかる。格差が著しく、またマイノリティーに対する差別が厳然として存在するアメリカ社会においては、なおのことである。
そのことをもっとあからさまに、身をもって示してくれているのが、ダマトが晩年になって出会った当時12歳の「無限の可能性を持った少年」マイク・タイソンである。
ダマトはタイソンにも「人間性を高めなさい」「カネなど二の次だ」と説き続けた。しかしダマトは、タイソンが王座を掴む前に77歳で世を去る。そしてダマトと入れ替わりにタイソンのところにやって来たのが、辣腕だが悪徳と悪名の高いプロモーター、ドン・キングである。ドン・キングはタイソンに放蕩を教え、様々な名目をつけてファイトマネーを徹底的にピンハネした。またタイソンの拳が生み出すカネに群がる人間は、ドン・キングだけではなかった…
「エピローグ」によると、著者もまたボクシングを志した人である。だが、プロテストに合格しデビュー戦を目前にしながら、左肘を痛め、プロのリングに上ることは叶わなかった。著者にとって本書は「書かずにはいられなかった」ということが、紙面からひしひしと伝わってくるような気がする。