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たまにゃミステリも読む

綾辻行人
十角館の殺人 (講談社文庫)
水車館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)
迷路館の殺人 (講談社文庫)
本を処分するために行った古本屋でたまたま『十角館』を手にとって、読み始めたら止まらなくなって、「館シリーズ」を一気に3冊読んでしまった。現在、同シリーズの4冊目を読んでいるところ。
『十角館』といえば、いわゆる「新本格派」のマニュフェストとも目される、登場人物の次のセリフであろう。

 だからさ、一時期日本でもてはやされた"社会派"式のリアリズム云々〔うんぬん〕は、もうまっぴらなわけさ。1DKのマンションでOLが殺されて、靴底をすりへらした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる。―やめてほしいね。汚職だの政界の内幕だの、現代社会のひずみが産んだ悲劇だの、その辺も願い下げだ。ミステリにふさわしいのは、時代遅れと云われようが何だろうがやっぱりね、名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒な大トリック……絵空事で大いにけっこう。要はその世界の中で楽しめればいいのさ。ただし、あくまで知的に、ね

(p13〜14)
作中人物の台詞がイコール著者の主張とは限らないことはじゅうじゅう承知だが、それにしても何と刺激的な文言だろうか。作品の冒頭にこれだけの大言壮語を置くからには、さぞかし読者を巧妙にだましてくれることだろうと、期待を持って読み始めた。
果たして期待は裏切られなかった。推理小説だからネタバレは許されないが、ぎりぎりのところまで書いちゃうと、『十角館』で最初に明かされる「十角形のコーヒーカップの謎」の種明かしのくだりでは、思わずうなってしまった。まさしく心理的な盲点というか人間の先入主というものを巧みに衝かれた。しかもそれが作品のメイントリックへの伏線としてうまくつながっているとなれば、「やられた!」以外の言葉が出ようか。
しかし…だからと言って「新本格派」に諸手を上げて「まいりました」と降参かというと、どうもそんな気にもなれない。私は『十角館』の登場人物が批判している「社会派」の代表格であろう松本清張の愛読者でもある。「靴底をすりへらした刑事がOL殺害犯を捕まえる物語」大いに結構ではないかと考える。というか「社会派」には「社会派」の物足りなさがあるように、「新本格派」には「新本格派」ならではの弱点があるような気がした。
それで「館シリーズ」をもう何冊か読んでみた。推理小説なんでネタバレは許されないから抽象的な言い方にならざるを得ないが、例えば「トランプ殺人事件」ということでハート・スペード・クラブ・ダイヤになぞらえた事件があったとしたら、そのうち必然性があるのは一つで、あとの「見立て」は迷彩にすぎないというパターンが多い。変な喩えだけど、物語世界を三角形だとすると「真相」はその内接円である。どうしたってスケールが小さくなる。
これは、事件解決に先立って必要な情報を全て読者に提示するという「新本格派」あるいは「本格派」の縛りの構造上、やむをえないことである。
しかし、そうじゃない作品を書く人もいる。解決の部分で「一回り大きな物語」が明らかにされる作品である。物語世界を三角形だとすると「真相」としてその外接円を描くようなものである。そのためには解決の部分で新たな情報の追加が必要になるが、「新本格派」あるいは「本格派」の立場からすると「それは邪道だ」ということになるかも知れない。
私がこれまで目を通してきたミステリの中でベストワンを選ぶとすれば(しばしば言われるようにミステリというジャンルに限っては、そういうことができてしまう)北村薫『盤上の敵』であるが、この本はまさにそういう構造を持つ作品であった。北村薫を「社会派」と呼ぶ人がいないように、北村薫を「新本格派」と呼ぶ人はいまい。
しかしミステリはありがたいことに排他的ではない。綾辻行人を読み、松本清張を読み、北村薫を読んだって、誰からも文句を言われる筋合いはないのである。
追記:
エントリーを書いてから念のためにぐぐったら『トランプ殺人事件』というタイトルのミステリが実在しました。
エントリー中の『トランプ殺人事件』というのは、現実に存在する作品とは一切関係がないことを付け加えておきます。

十角館の殺人 (講談社文庫)

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水車館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

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迷路館の殺人 (講談社文庫)

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