🍉しいたげられたしいたけ

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山田正紀『弥勒戦争』(角川文庫)

私が読んだ角川文庫版は版元品切れですが、ハルキ文庫版が手に入るようです。

弥勒戦争 (ハルキ文庫)

弥勒戦争 (ハルキ文庫)

敗戦直後、GHQ占領下の日本で、仏教の「六神通」になぞらえた超能力を有する「独覚」と呼ばれる集団が、世界を破滅に導く強大な超能力者「弥勒」と対決するSF。
仏教ヲタなコメントを。仏教知識にもいろんな体系があって、本書の仏教知識は法華系をベースにしているらしい。だが著者は、本書の執筆時点において、『法華経』はじめ仏典の原典には多分当たっていないと思う。
以下、ページは私が読んだ角川文庫版で。
「<声聞>にいたっては、たんに仏の声を聞いた者ということでしかなない」(p76)
「声聞」とは四諦の教えを学び阿羅漢となることを目指す出家修行者のことで、決して「たんに仏の声を聞いた者」という意味ではない。
なお引用部の前後に、著者が「大乗」と「小乗」の違いを述べ、前者が後者に勝っていることを説明する部分があるが、これは「大乗」側の言い分にすぎず、客観的には「大乗」と「小乗」は対等と見るべきであろう。また「小乗」という言葉は「大乗」側からの蔑称であり、「部派仏教」「上座部仏教」「南伝仏教」などのほうがより中立的な名称のはずである。
「ブッダは生前自分の教えを文字に残そうとはしなかったし、晩年には教えを説くことさえほとんどしなかったという」(p77)
前半は正しいが、後半は今日に伝わる仏典に拠る限り真逆で、むしろ晩年ほど熱心に説教した。岩波文庫『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)』には、その死の直前においてさえ、鍛冶工チュンダ、マッラ族の人々、遍歴行者スバッダ、そしてアーナンダらの弟子に法を説く様が描かれている。
「『大無量寿経』という経典のなかで、この阿難尊者が世尊に話しかけている場面がある。《中略》ところで、阿難尊者が繰り返して世尊に語りかけているその内容なのだが……人間ブッダを暗黙に非難しているととれる内容なんだ。つまり、生きとし生ける者が総て<さとり>を得るのでなければ、自分は完全な<さとり>をさとりたくないと、くどいほど繰り返しているのさ」(p94)
そういう意味の言葉を語ったのはブッダが阿難〔アーナンダ〕に対してである。ちなみにこれらはブッダ自身の言葉ではなく、法蔵菩薩(後の阿弥陀如来)の代弁として語られたものである(有名な「四十八願」)。
「『法華経』と密教の大日如来は縁が深いから」(p97)
『法華経』全八巻(文庫本全三冊)中に大日如来は一度も登場しない。
「女は<さとり>を得ることができないという理由で、仏によって男に変えられたサーガラ竜王の娘」(p197)
ちょっと物語の核心に近い部分なので迷ったんだけど、引用を最小限にして。
『法華経』中でも有名な変成男子のエピソードだが、原典には「仏によって男に変えられた」とは書いてない。竜王の娘が誰の力によって男に変身したのがは明記されていないが、前後のくだりを読むと竜王の娘自身の神通力によってと解釈するのが自然であろう(『法華経〈中〉 (岩波文庫)』p222〜)。また変成男子のエピソードは「女はさとりを得ることができない」に対するアンチテーゼであり、その証拠に『法華経』ではその直後の章でブッダの叔母にして義母である摩訶波闍波提〔マハー=プラジャーパティー=ガウタミー〕やブッダの出家前の妻である耶輪陀羅〔ヤショーダラー〕らに対し「授記」(仏になるという予言)が与えられている(『法華経〈中〉 (岩波文庫)』p228〜)。
とまあ突っ込みどころ満載で、研究者の尽力により『法華経』ほかの現代語訳はとても読みやすいものに仕上がっているのだから目を通しておけばよかったのに、と思わずにはいられない。
しかし以上に述べてきたことは瑣末事である。物語自体は、抜群に面白い!
大風呂敷を広げるだけ広げて、ラストまでにそれをきちんと畳んでみせる力量はすごい(逆に言うと、大風呂敷を広げただけで畳むことに失敗している長編は、古今を問わず枚挙に暇がない)。
フィクションにおいて、事実関係の真偽というのはどの程度重要視されるべきものなのだろう?
前回のエントリーで触れた三島由紀夫は、事実関係の正確さでは定評があった。『天人五衰』で東大に入学した主人公が本郷キャンパスに通学する描写があっただけで「珍しくミスしている」と話題になったくらいだから(物語の時点において東大の新入生は駒場キャンパスに通う)。
しかし一方で、例えば『金閣寺』なんかだと、金閣寺の住職や主人公の母親など実在の人物に比定可能な登場人物について、かなりひどい描き方をしている。水上勉『金閣炎上』と読み比べると、それだけの描き方をするに足る十分な根拠があったとは思えない。そういえば三島は『宴のあと』で裁判沙汰を起こしていたのは有名な話である。私自身は『宴のあと』は未読だけど。
一般的に考えて、事実関係は正確を期すにこしたことはないだろうが、かといって水上が『金閣炎上』を書くのに20年を費やしたのと同様のことが、どの作家にも可能なわけではないだろう。
実在の人物を傷つけているのでない限り、フィクションにおいて多少の事実関係の不正確さは不可避だし許容されると考えるべきものだろうか。多分そうなんだろう。
いらんことを言うと、最悪なのは事実でないことを並べてなおかつ実在の人物を傷つけることである。言葉にしてしまうと当然以前のことなのだが、そういう言論人が現に存在してしまう。ほんの一例だが、目取真俊さんのブログの「集団自決(強制集団死)」というカテゴリ http://blog.goo.ne.jp/awamori777/c/4f25ea1b55aa805daa6ca154d9849695 を読むと、藤岡信勝という人物のデタラメぶりが酷すぎる。
ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

法華経〈中〉 (岩波文庫)

法華経〈中〉 (岩波文庫)