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倉田百三『出家とその弟子』(岩波文庫)

出家とその弟子 (岩波文庫)

出家とその弟子 (岩波文庫)

浄土真宗の開祖=親鸞と、親鸞の子だが義絶された善鸞、親鸞の弟子にして『歎異抄』の著者である唯円を主な登場人物とする戯曲。
ただし史実としては、善鸞は、浄土真宗の教義にそむく教導を行ったために、つまり分派活動を行ったために義絶されたはずだが、本書では善鸞は人妻と不倫騒動を起こしたために義絶されたことになっている。
放蕩で身を持ち崩した善鸞と父親との仲を、なんとか取り成そうとする唯円は、善鸞を説得するために訪れた遊郭でたまたま出会った可憐な遊女かえでと、恋に落ちる。
かえでとの仲を先輩僧たちに見咎められた唯円は、教団から放逐の危機に直面する。そして親鸞は唯円と、人間の罪と業というテーマをめぐり対話を行う…
本書は『歎異抄』に肉付けして戯曲化を試みたものであるという解説を読んだ記憶があるが、『歎異抄』の内容を直接踏まえているのは、多分、第二幕で関東より上洛した信者たちに対し「親鸞においては念仏のみ」という有名なフレーズを踏まえた説法をおこなう一箇所だけだと思う。
個人的には、親鸞が唯円に、人間というものが罪をつくらずにはいられない存在であることを諭す場面で、『歎異抄』中の「唯円房は私の言うことを信じるか?」「はい」「極楽浄土へ行きたいか?」「もちろんです」「ならば人を殺してみろ!もし人を千人殺したなら、確実に極楽浄土へ行けるぞ!」という、これも有名な問答を使ってほしかった気がする。
むしろ、これも本書に関してよく言われることではあるが、聖書と仏教という東西の信仰の統合を試みているとおぼしき部分がよく目に付いた。巻末の注釈に頼らなくても「あっ、これは聖書の言葉だな」と気づいた箇所が、いくつもあった。
本書では、法然と親鸞を「深く愛し合っていられました」(p45)と表現したり、唯円が親鸞に対して「あなたは私を愛して下さいますか」(p138)と尋ねるなど、「愛」という言葉が繰り返し用いられる。気持ちはわかるが、文化の違いというものだろうか、やっぱり違和感があるな。例えばアメリカ映画で息子が父親に向かって"I love you."と言うシーンは記憶があるんだけど。
巻末の解説によると、本書は英仏独語に翻訳され海外でも高い評価を得ているそうだが、欧米の読者には本書だけを読んで「キリスト教と仏教は同じものだ」というような結論に安易に飛びついてほしくないと希望する。たとえ最終的に仏教とキリスト教はその根本において一致するという結論を下すとしても、違っている点はやはり大いに違っていることを踏まえた上で下してほしい。
あと印象に残ったのは、唯円がかえでのいる置屋の女将を罵倒して親鸞に厳しく叱責されるシーンで、これは生々しい!

唯円 今日、松の家の内儀〔おかみ〕に、泥棒猫だとののしられました。私の小指ほどの価もないあの鬼婆〔おにばば〕に!
親鸞 そのような言葉遣いをお恥じなさい。お前はまったく乱れている。自分を尊敬し、自分の魂の品位を保たなくては聖なる恋ではない。我と我が身をかきむしるのはこの世ながらの畜生道だ。柔和忍辱〔にゅうわにんにく〕の相が自然に備わるべき仏の子が、まるで狂乱の形じゃ。

(p233〜234)
仏道とりわけ浄土真宗などの浄土門は、おのれの罪業の甚重さを自覚することからスタートする。だが自己否定というものは常にスパイラルする危機をはらみ、ややもするとこのように自らを他人の上に置いてしまう錯誤に陥る。
私は宗教者ではないから誤っているかも知れないが、宗教というものは本人が必要とするから求めるものであって、宗教をやっているから上だ下だということは決してありえないはずである。これは宗教に限ったことではなく、文学・芸術・哲学などにも言えることだと思う。以前ある著名な哲学者に関する入門書に「この哲学者が求めた境地とは、常人がなんの苦もなく達成しているスタート地点にたどり着くことであった」という意味のことが書いてあったのを思い出した。
まあそれを言い出したら、たかがネットをやっているというだけで他人を「情弱(情報弱者)」だの「愚民」だのと見下したがるヤカラが、ネット上には掃いて捨てるほどいるけど。ネットで得られる情報はつまるところ他のメディア経由でもいくらでも得られるものばかりだし、自分の人生にとって本当に必要なことは絶対にネットには書いてない。