しいたげられたしいたけ

弊ブログでいう「知的」云々は「体を動かさない」程の意味で「知能の優劣」のような含意は一切ない

植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』(中公新書)

仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書)

仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書)

「現代日本における仏教の教義と、2500年前にゴータマ・ブッダが説いた教えは、大きく異なっている」と今さら言われても、あたかも「プロレスは真剣勝負じゃないんですよ!八百長なんですよ!」と力説する人を目の前にするようなもので、もとより反論する気はないが「だから何なんだ?」と戸惑いを感じないではいられないだろう。
しかし著者は『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上・下巻と『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』を出版した人で、これほどの労作をものした上は、書かないではいられなかった発見は、当然ながら多々あったのだろう。
面白いなと思ったのは、例えば「八正道」すなわち「正見」・「正思」・「正語」・「正業」・「正命」・「正精進」・「正念」・「正定」に対する次のようなコメント(P40)。

 いずれも「正しく」(samyak)という文字が付いてる。筆者は、初めこれらを見て「正しく」という副詞をつけても、何をもって「正しい」とするのかを述べなければ、それは何も言っていないに等しいと思っていた。けれども、当時の思想状況を知って納得した。いずれの項目も、バラモン教はもとより、釈尊と同時代にガンジス河中流域で唯物論、道徳否定論、不可知論、決定論、相対論、要素説を唱えていた六人の自由思想家(六師外道〔ろくしげどう〕)などが活躍していた当時の思想情況、思考法、実践法を正しながら、正しい「法」に目覚めさせるものであったのである。

著者の「それは何も言っていないに等しい」と率直に指摘する知的勇気には脱帽を感じるが、さりとてサンスクリットも「当時の思想状況」も知らない読者の私には、残念ながら著者の実感を共有することはできなかった。まあパリサイ人のいないところでパリサイ人の批判を聞かされても、安易に共感したならそれは自己欺瞞である…って宗教が違うか。
あとサンスクリット原典という武器を使うことによって、何世紀にもわたった仏教教義上の論争に明快に決着づけられることもあるのだそうだ。P103〜によると『法華経』の解釈をめぐって、ブッダの教えには「声聞乗・独覚乗・菩薩乗=仏乗」の三つがあるとする「三車家」と、「菩薩乗」と「仏乗」を区別して四つがあるとする「四車家」が、激しく争ったことがあるのだそうだ。で、原文を参照すると、実は「唯一」を強調するサンスクリット独特のレトリック(イディオム?)があるのだそうで、著者は、語義を正しく解釈したのは三車家だったが、真意を歪めなかったのは四車家のほうだった、と明快に軍配を下している。
もうちょっとわかりやすいところでは、観世音菩薩は男性だと思いますか?女性だと思いますか?それとも中性・両性・無性e.t.c.…だと思いますか?著者はここでも明快で、男性なんだそうです(p175〜)。へぇ。