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しかし活字から得た知識は案外あてにならないということ

謎解きはディナーのあとで (小学館文庫)

謎解きはディナーのあとで (小学館文庫)

過去のエントリーで、別の本から得た知識を使って『謎解きはディナーのあとで (小学館文庫)』を批判した。
しかし本に書いてあるからといって、無条件でそれが信頼できるとは限らないことは言うまでもない。つかわかっているつもり。
最近読んだ本で、こんなことがあった。
美川圭『院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)』の開巻一番「はじめに」より。

(前略)直系の子や孫を天皇の地位につけることができた上皇が、その親権を行使して政治を行うのが院政であって、単なる元天皇である上皇が院政を行えるわけではない。弟に譲位した上皇は院政を行うことができないし、また父院が存命中の上皇も院政を行うことができない。

明快な記述である。
ところが、時期を同じくして読んだ森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))』p100より。

 さて、後醍醐天皇を比叡山に追い払い京都を制圧した足利尊氏は、京都で第二の武家政権樹立に向けての本格的な作業を開始する。主なものは光明〔こうみょう〕天皇(光厳の弟)の践祚(建武三年八月一五日。兄光厳による院政が開始)、それに建武式目二項十七ヵ条の制定(同年一一月七日)である。

「兄による院政」とはっきりと書いてあるではないか!どっちが正しいんだ?
結論から言うと、どっちも正しいと思うんだよね。「直系の子や孫を天皇の地位につけた上皇が院政を行う」という記述は、原則としては正しいと思うし、光厳光明(というより後醍醐)の時代は、天皇家の歴史においていわば例外中の例外の期間であった。先例主義の皇室において、後醍醐の治世は特異な事績があまりに多いので先例になりにくいという話を、どっか別のところで読んだ記憶がある。対抗する側も「なんでもあり」だったのかな?
『院政』には目次に続いて「院政一覧」という一覧表が掲げてあって、その中には「院:光厳」「在位の天皇:光明・崇光」という項目もちゃんとある(崇光は光厳の子)。『院政』の著者だって知らないわけじゃないのだ。
しかし読者としては、活字に振り回されてしまうことが、どうしてもありうる。
歴史学者は、膨大な一次資料を読み込んで書物にまとめる。「歴史」というものが最初から存在するわけではなく、我々が普通に「歴史」として想起するものは、そうした歴史学者の仕事の上澄みの部分にすぎないのだが、我々がそう認識する機会は決して多くはない。
また歴史書を読むにあたっては、複数の著者の異なる視点の本を読み比べたほうがいいに決まっている。『院政』と『南朝全史』は、前者は平安後期〜鎌倉、後者は鎌倉〜室町と扱う時代はやや異なるが、前者を読んでから後者を読んだことは大いに勉強になったと感じる。
たとえば「両統迭立」というが、天皇の系図を見ると決して「持明院統」「大覚寺統」が交互に天皇を出しているわけではない。父親から息子に譲位されたのち、伯父or叔父に皇位が移るというケースが実に多い。これはそれぞれの系統が「上皇」プラス「天皇」をセットで奪おうと争ったためと考えると、すんなりと腑に落ちる。
さらに、学問的な厳密さにとらわれず、いろいろと想像をたくましくすることができるのも、素人の特権である。
例えば両書にはそんな話は一切出てこないが、最近別の形で話題になっている「宮家」について。宮家の第一号「伏見宮家」の発祥は北朝第3代崇光天皇の皇子=栄仁親王である。「宮家」すなわち天皇の位に決して就かない親王の系統の存在を認めたのは、南北朝合体後「天皇を交互に出す」という約束をもののみごとに反故にされて不満を募らせ、反幕府勢力に担がれる可能性を常に内包する大覚寺系の親王たちの権威を、相対化する上で有効と時の幕府が判断したからと想像できるんじゃないかな。『南朝全史』には、「後南朝」の権威を利用しようとした様々な勢力に関する記述がある。
それ以前の時代では、親王たちの子孫は「源」とか「平」とかの姓を賜って臣籍降下するのが普通だった。清和源氏だけが源氏じゃない。桓武平氏だけが平氏じゃない。
「光」なんてヘンな姓を賜った親王もいた(いないいない!
ただしそういう仮説を実証しようと思ったら、それこそ膨大な一次資料の読み込みが必要になるんだけどね。

院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)

院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)

南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))

南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))