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末木文美士『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

現代仏教学の大家をつかまえて不遜な物言いだが、この著者の問いの立て方が好きなので、著書を何冊か読んでいる。すなわち、近世から現代に至る日本の仏教を「堕落」だとか「形骸化」だとか言って切って捨てるのは容易だが、しかしいやしくも「仏教」という名で呼ばれているものが、この国の社会にしっかりと根を下ろしているのは、それなりの理由があるのではないか?歴史上のシャカが説いたオリジナルの仏教と、「葬式仏教」だとか「観光仏教」だとか何かと貶されることも多い今日の仏教を、両者のあまりの隔たりから「似て非なるもの」と即断するのではなく、受容と変容の過程をつなぐ必然の鎖を見出すことができるのではないか?…これは私自身の問いでもある。偉そうですねすみません。
例えば弊ブログで時々書いている通り、私の実家は浄土真宗で私自身の立場も浄土教的なものであるから、どうしても浄土教中心の読み方になってしまうのだが、本書では、天台・真言などの平安仏教と、浄土教など鎌倉新仏教をつなぐミッシングリンクの一つとして「本覚思想」の解説にかなりのページが割かれているが、その部分などが興味深く読めた。
「本覚思想」というのは「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」という大乗の思想を突き詰めると行き当たる考え方で「草も木も成仏できる」あるいは「草も木もすでに成仏している」すなわち草木など現実世界の一切の事物は、あるがままですでに悟りを実現しているとする思想なんだそうだ。この考え方は『法華経』などの仏典中に根拠となる文言を見出すことができ、その影響は、鎌倉新仏教の母胎としてのみならず中世以降の文学や芸術に対しても、意外に大きいんだそうだ。へぇ。
ただしこうした思想は「修行不要」「戒律不要」を許容する危険もはらみ、悪名高い中世・近世の仏教界の堕落を招いた一因と見ることもできるんだそうだけどね。
キリスト教の「神の全能性と悪の存在の矛盾」に関連させて論じた箇所も興味深かった。すなわちキリスト教世界では「神は全能にして完璧であるのに、なぜその全能・完璧の神が創造した人間の社会に悪が存在するのか?」という議論が積み重ねられてきたんだそうだ。ちょっと違うけど、理系人間としては「物理法則は無謬なのに、なぜその物理法則に一分もはみだすことなくきっちり従って存在している人間が、間違いばかり犯すのか?」という疑問に似ていると思う。自然科学者が、宇宙にしろ何にしろシミュレーションを始めると、宇宙自身が自分自身の完璧なシミュレータであることに気づいて驚くというアレだ。
もう消えちゃったけどasahi.comに「アメリカの百万冊分の知識を蓄積したスパコンが、クイズで雑学王に圧勝した」という記事があった(はてブによると2011/02/17付)。その記事中にコンピュータが推論で、正解はシカゴなのにカナダの「トロント」と答えるミスを犯した、というくだりがあり「ミスをするコンピュータ?それってめちゃくちゃすごくね?」とぶくまコメした記憶がある。
けだし「ミスとは何か?/正解とは何か?」キリスト教でいうなら「悪とは何か?」本覚思想に話を戻すと「悟りとは何か?/(悟りの対義語である)煩悩とは何か?迷いとは何か?」の再定義を考えることが第一歩なんだろうと思う。
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