🍉しいたげられたしいたけ

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歴史書を何冊か

吉村貞司『日野富子―闘う女の肖像 (中公新書 (771))
永原慶二『日本の歴史〈10〉下克上の時代 (中公文庫)
杉山博『日本の歴史〈11〉戦国大名 (中公文庫)
『日野富子』を処分するつもりで(つまりScanSnapで電子化するつもりで)読んでしまおうと思った。
新書のことで、通読するのはそんなに大変ではなかった。
だが、応仁の乱以後の足利幕府のことを、自分が全然知らないことに気づいた。九代将軍は義尚が継いだことくらいは知っていたが、その義尚が義政・義視に先立って早世したこととか、足利将軍家は義視の子=義澄を経て義政・義視の弟である堀越公方政友の子=義澄の系統によって継承されたこととか、義稙や義澄は何度も何度も改名していて(義材〔よしき〕・義尹〔よしただ〕・義稙、義遐〔よしとお〕・義高・義澄)ワケワカメなこととか…
でも自国史の知識が幕末と戦国に偏りすぎているというのは、日本人にはよくあることじゃないだろうか?でしょ?
というわけで、『日本の歴史』シリーズを何冊か読んでみようという気になった。
中公文庫『日本の歴史』シリーズに関しては、ちょっとしたトラウマみたいなものがある。トラウマというと言い過ぎだが。
大学に入った直後、受験勉強から解放された自由な目で改めて歴史を勉強しようと、このシリーズを何冊か買い込んだのはいいが、挫折して一冊も通読できなかったのだ!
若いころは「一日一冊!」みたいな意味のないことに意地になったりすることがわりとあり、人名だけでも膨大な量が出てくる歴史書をそんな根性で読破しようとしたら、挫折するに決まっている。
「本を読むのにいくら時間をかけてもいい」と思えるようになるのは、数少ないトシを取っていいことの一つだと思う。
『日本の歴史』シリーズは、いいわぁ。歴史をつねに社会・民衆・産業の視点からとらえようとする立場が貫かれているのが、なんというかよい意味での「アカデミック」な匂いがして、頭がリフレッシュする思いがする。まぁ若いころは、それがまどろっこしく感じたりするんだけど。
恥ずかしながら「苧〔からむし〕」「青苧座〔あおそざ〕」が読めなかったぞ。日本史をきちんと勉強したことのある人から見たら問題外だろうけど。
読んでみた感想なのだが、改めて日本の中央政権は室町→安土桃山で断絶しているんだなぁ、ということをしみじみと感じた。
室町幕府は、三代義満〜八代義政の最盛期においてすら、頻発する地方の反乱を抑え切れていなかった。
参勤交代や賦役によって諸大名をほぼ完全に抑え込んでいた江戸幕府と、同じ幕府の名で呼んでいいのかとためらうほどの弱体っぷりである。赤穂藩の元禄勅使饗応や薩摩藩の宝暦治水はすっと思い浮かぶよね?
そうやって考えると、徳川家康という人物の巨大さは、想像を絶するほどだと思った。感情的な好悪でいうと徳川家康は大っ嫌いなんだけど。いかにも日本型家父長の典型という感じがして。
いや中世→近世において、中央王権が地方領主権を圧倒してゆく過程は、ヨーロッパでも中国でも共通して見られる現象である。そっちの方に着目したほうがいいのかも知れない。
主権を掌握した家康が、なぜ「幕府」という名称を選択したのかも、改めて考えると実に不思議だ。
それをあまり不思議に感じないのは、我々が江戸幕府という成功した政体を知っているからであって、それ以前の室町幕府や、あるいは鎌倉幕府は、失敗した政体と言ったら言い過ぎかもしれないが、少なくともあまりいいお手本とは言えないはずである。
豊臣秀吉が主権者の肩書きとして「関白」を選択したのは、義昭に猶子にしてもらえなかったからとか、源氏じゃないから将軍になれない(これはウソらしいが)とかの消極的な理由ではなくて、成功した政体のお手本と言えば400年続いた平安王朝が最高のものだったからじゃないか、なんて思えてくる。現に文芸とかでは近世に至るまで王朝文学がずっとお手本だった。
勉強すれば勉強するほど新たな疑問が出てくる。それがいいのだ。偉そうなこと言うほど勉強してないけど。

日野富子―闘う女の肖像 (中公新書 (771))

日野富子―闘う女の肖像 (中公新書 (771))

日本の歴史〈10〉下克上の時代 (中公文庫)

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日本の歴史〈11〉戦国大名 (中公文庫)

日本の歴史〈11〉戦国大名 (中公文庫)