しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

徳善義和『マルティン・ルター―ことばに生きた改革者』(岩波新書)

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

印象深かったのは、ルターの信仰のかたちを決定づけたという「塔の体験」(p37〜40)かな。晩年の回想によるとルターは、罪人を罰する神の義を愛さず、憎んですらいたという(p35)。そのルターが詩編にある「あなたの義によって私を解放してください」という言葉を講義しなければならなくなって、自分が理解できていないことを学生に教えられるはずがないと悩んだという。
探究を進めるうち、ルターは「神の義」という言葉は、オリジナルのヘブライ語では「行為者の属格」という文法的用法が使われていることを発見したという。
「行為者の属格」というのは、たとえば「お父さんの贈り物」という言葉で説明するとわかりやすいという。この場合「贈る」という行為の主体は「お父さん」であるが、「贈る」という行為の結果、贈り物はお父さんの手を離れ送られた人の所有物になる。このように「行為者の属格」というのは、行為の主体を表すと同時に行為の後にはそれが行為を向けられた相手にも及ぶのだそうだ。
ヘブライ語の聖書ではよく使われていたというこの「行為者の属格」は、ラテン語に翻訳された聖書では文法の違いから理解が困難だったんだそうだ。
ルターは「神の義」が神のものであると同時に罪深き人間に与えられたものでもあることに気づき、「罪人を罰する神」から「救いの神」への認識の転換を遂げたのだという。
ルターがこの着想を得たのが修道院の塔の小部屋であったため、「塔の体験」と呼ばれるんだそうだ。あまりにも有名な「落雷の回心」に比べると知名度は下がるが、思想的な重要度でいえばこちらのほうが上のように思われる。
すんません、これを読んで私が強烈に想起したのは、例によって仏教それも浄土教との相似でした。
「神の義」というのがこのようなものであれば、浄土教でいうところの「往相回向」にそっくりじゃね?
「往相回向」というのは浄土教の最重要教義の一つで、我々凡夫が解脱するために必要な修行は阿弥陀如来が五劫思惟すなわち五劫という永遠に近い長い長い期間にわたって続けた修行によってすでに成し遂げられており、阿弥陀如来がそれを我々に振り向けてくださっているという考えである。それどころか我々の信仰、我々が「南無阿弥陀仏」と念仏しようと思い立つことすら、阿弥陀如来により回向すなわち振り向けられたものだという。
ルターと親鸞の相似はしばしば指摘されているが、してみると比較すべきはルターと法然かも知れない。法然の思想転換も、善導の『観経疏』という書物との出会いによるものだった。どちらも「ことば」で作られた信仰なんだよね、瞑想とか神秘体験とかいったものじゃなく。
だが、そういう相似を探すことにどんな意味があるのかという疑問つか自己突っ込みも湧いてきたぞ。
活躍した年代の近さ、健筆ぶり、ドイツ農民戦争と一向一揆という社会的影響などから、ルターと蓮如を並べてみたいという誘惑にもかられる。
一方で、ルターの活躍の背景にあった活版印刷革命が我が朝にはなかったことや、「往相回向」と対をなす「還相回向」に相当する教義がキリスト教では見当たらなさそうなことなど(なにせ輪廻転生がないんだから)、折り合いのつけようのない相違点はいくらでも取り出せそうだ。
そういえば史上名高いドイツ農民戦争のことを、恥ずかしながら私はほとんど知らないな…またちょっと調べてみよう。