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橋爪大三郎、大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

キリスト教のことをちょっと復習したいなと思って、読んでみた。確か去年の新書ベストセラーのベスト何位かだったはず。そのわりに(それゆえに?)キリスト教関係者の評判は至って悪いという話も、どっかで耳に挟んでいた。
最初に「あれっ?」と思ったのは、次のくだりを読んだときだった。

(橋爪)余談ですが、偶像崇拝がいけないという論理が、マルクス主義にもあるでしょう?資本主義がいけないのは、疎外→物象化→物神化というプロセスによって、人間の労働が本当の価値の実体なのに、それが商品になり貨幣になり資本になり、物神崇拝されるに至って、自分がつくりだしたものをそれと知らずにあがめている転倒した世界だからです。この論理は、ユダヤ教、キリスト教の発想とそっくりだ。

(p88〜89)
私は聖書はいわゆる「マタイ読み」だが『資本論』はそれ以下の第1章で放り出したクチだけど、ここで橋爪氏が言及している物神論は、ほかならぬその第1章に登場する。物神化に至るプロセスは「交換→(労働価値学説でいうところの)価値→貨幣→物神化」であって、疎外をスタートとしたものではなかったはずだ。
弊ブログでしばしば述べているが、学者にはspecialistとgeneralistがいるようで、specialistは細部に至るまで正確だが守備範囲が狭く、generalistはやたらと風呂敷は広いが細部は突っ込みどころだらけだ。島田裕巳、岡田斗司夫、大瀧啓裕で弊ブログを検索してみてください。
「こいつらgeneralistかな?だとすると書いてあることを鵜呑みにするのは危ないな」と思いながら読み進むと、イエスが故郷に帰った時のエピソードとか、イチジクの木を枯らしたエピソードとか、だいたい合ってるだろうけど細部は確か違ってたんじゃないかと「マタイ読み」にも感じられるところがボロボロと出てくる。
間違いだと断言できるところを一か所だけ、最後のほうだが。

(橋爪)神道がカミの像をつくらなかったのは、キリスト教から見ればおもしろい点です。なんでカミの像をつくらないかといえば、像をつくると拝まなければいけないから。それは支配されるということなんで、なんだか嫌だな、と。だから、神道はカミの像がないんですね。

(p331)
カミの像はあります。弊ブログ2008-01-26のエントリーに載せた写真を再掲。

松尾大社の男神坐像と、熊野速玉大社の熊野速玉大神像。他にも薬師寺八幡三神像は、弊ブログ2011-10-02のエントリーに書いた岐阜市歴史博物館の「薬師寺展」で拝観させてもらった。ひな人形かと思うほど意外に小さな像だった。
さらに言えば、七福神が神道のものか仏教のものか議論はあるだろうけど、明治の無理やりな神仏分離以前の習合時代に仏教と神道を区別するのは無意味だということで、責任の半分を神道に押し付けてしまえば、これはもう数限りない。
神道では仏教のように像を本尊に据えて拝むことをしないというだけじゃないのか?神道の神社のご神体は、たいてい秘蔵されている。これはこれで論じれば面白いだろうし、論じている人はきっと多数いるだろうけど。
キリスト者に評判が悪いというのも、むべなるかなと思った。
そもそも著者らの関心の置き所が、私が本書を手に取った動機とはまるで違ったところにあるようだ。前述の通り私はキリスト教をもうちょっと勉強したかったのだが、著者らは「科学はなぜ西洋で生まれたのか」「近代化はなぜ西洋で始まったのか」というテーマを、キリスト教を軸に考えようとしているわけだから、かみ合わないのも無理はない。
まあ本書を読んで、私の場合、キリスト教の知識を深めようと思ったら、新約聖書のパウロ書簡であるとか、旧約聖書の未読分(と言っても『創世記』の初めの方と『ヨナ書』以外のほとんど全部だが(^▽^;)であるとかに、まずは目を通すのが第一歩だということを再認識できただけでもよしとすべきか。

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