しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない。

梅棹忠夫『知的生産の技術』の胸が苦しくなるような記述について

少し前に梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)が、「はてな」界隈で話題になったことがある。1969年に初版が出たロングセラーだ。確かに繰り返し読むべき名著に間違いないと思う。しかしそれだけでなく、半世紀近い昔から今日の我々に、様々な問題を投げかけ様々なことを考えさせる本でもあると思う。そのうちの一つをピンポイントで。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

第7章「ペンからタイプライターへ」に「文字革命のこころみ」と題された節があり、こんな記述がある。

 どこかの古本屋で、奇妙な本をみつけて、かってきた。『漢字に代はる新日本文字
とその綴字法』という、ながったらしい書名がついている。著者は稲留〔とうる〕正吉と
いう人で、奥づけをみると、大正八年(一九一九)の出版である。発行所は、「文字
の革命社」とある。菊判二二〇ページの、堂々たる本である。
 内容をみると、なるほどそうとう「革命」的である。日本語をかきあらわすために、あたら
しい文字をつくった、というのだから。文字の数は、基本的なものが七五個で、ほかに特殊文
字が数個ある。かな文字とおなじく音節文字だが、形は、ローマ字とおなじのもあるし、ヘブ
ライ文字や音声記号ににたのもある。字形の起源についての説明をよむと、カタカナ、ひらか
な、変体がな、などから変形してつくった、というのもすくなくない。
 この文字をもちいて日本語をかきあらわし、また日本語の文法を説明してゆくのだが、おど
ろいたことには、日本語の名詞に性と数の区別をもうけ、それをあらわすためのサイレントの
文字をつくり、語尾につけたり、語のまえにおいたりするという。あとがきをみると、この本
は上下二巻からなり、下巻では、従来の国語文典に大まさかりをふるって、実例をあげてあや
まりを指摘する、と予告してある。わたしのもっているのは上巻だけで、下巻ははたしてでた
のかどうか、また、この革命的国語国字研究家のその後がどうなったのか、わたしは何もしら
ない。

(P130〜1)
少しおいて次のページに、もう少し補足がある。

 新字の考案という仕事は、なにか、人間の情熱をあやしくもえあがらせる、ふしぎな魅力を
もっているらしい。もともと、国語国字の問題に熱心な人には、しばしばファナチックな傾向
がみられるが、新字論者には、ずいぶんはげしくその創造にうちこんだ人がいたらしい。さき
の稲留氏も、その序文によると、国字の改良と国語の整理をくわだてて二十余年、ついに一生
の事業と覚悟をきめ、そのために妻帯もみあわせ、老母もまきぞえにし、職業もなげうち、「命
がけで」この本をかいたというのである。よんでいるうちに、気味わるくなってくるような話
である。

(P132〜3)
私は「気味わるくなる」というより、胸が苦しくなるような思いがしたが、いかがなものだろうか?
この『漢字に代はる新日本文字とその綴字法』という本を、何かのはずみに検索したら、上巻が近代デジタルライブラリーに入っていてネットで読めることがわかった。下巻はやはり見当たらなかった。
国立国会図書館デジタルコレクション - 漢字に代はる新日本の文字と其の綴字法 : 附・日本の羅馬字と其綴字法. 上巻
完読まではしなかったが、しばし読みふけってしまった。
スクリーンキャプチャした扉。

序文。梅棹をして「よんでいるうちに、気味わるくなってくる」と言わしめたのは、この部分であろうか。

この序文と目次に続いて、かなり長い「まえがき」がある。「まえがき」には著者いわゆる「漢字に生れた、新日本の不幸に打ち勝つ」べきことが、敷衍されて縷々述べられている。
著者の提唱する「新日本の文字」の一部を、P24から。ひらがな・カタカナの一文字が「新日本の文字」一文字に対応している。

OCRで文字化することが不可能なので、スクリーンキャプチャを示さざるを得ないことを、ご理解願います。
P31から、五十音図というのだろうか、ア行、カ行、ガ行、サ行、ザ行…の順に並んで、スクリーンキャプチャの都合でマ行で切れています。

アルファベットの書き込みが残ってる。
こうした試みを行ったのは稲留だけではなく、『知的生産』引用部の前後には、眼科医の石原忍博士による1960年代の「あたらしい文字の会」という活動が、同じくらい紙幅を割いて紹介されている。さらに同書には、日本の国字改良運動にはこうした「新字論」だけでなく「ローマ字論」「カナモジ論」といった系譜も存在することが述べられている。
なぜこのようなおびただしい試みがなされてきたかというと、タイプライターというものを持ちえない日本語をいかに欧米の言語に近づけるか、もっと本質を言えば、明治維新以来ごく最近に至る「遅れた日本」をいかに「進んだ欧米」に近づけるかという苦悩と努力の一つの側面に他ならないと思うのだ。
これは実は日本に止まらず、近代のアジア諸国、否、欧米先進国以外のほとんどの国において現象した問題だろう。現にベトナムが漢字を廃しローマ字を採用したこと、トルコがアラビア文字を廃しやはりローマ字を採用したこと、モンゴルがモンゴル文字を廃しキリル文字を採用したことが、すぐに思い浮かぶ。モンゴルは現在ではモンゴル文字への回帰も進んでいるが。漢字の本家の中国でも簡字体の開発と普及が図られた。
周知のごとく日本語ワードプロセッサの急速な普及という技術的なブレイクスルーによって、タイプライターに関する問題はひとまず解決されたとみていいと思う(『知的生産』に話を戻すと、「はじめに」P16他にコンピュータの家庭への普及を予見する部分があって驚かされる)。しかし明治以来つい数十年前までは自明であったはずの、「遅れた日本」の自覚とそれを克服しようという苦悩や努力が、そう簡単に忘れ去られていいものかという感想も否めない。もっとはっきり言うと、日本人は傲慢になっていないか?
世界に目を向けると、自国の遅れを認識し先進国に追いつこうという努力を続け、現にすごい成長を遂げつつある国が、驚くほど多数存在するのだ。IMEパッドを開くと、聞いたことのない言語の見たことのないフォントが大量に表示される。そのことはとりもなおさず、それらの言語がかつて日本語が直面したのと同じ問題を、克服したか克服しつつあることの証左に他ならない。決してアスキーアートの素材提供を主目的にやっているのではないのだ。
そういった国々との正しい接し方は、相手を尊重しつつ明治以来の態度を忘れず切磋琢磨する以外にないと思うのだが、あまりそういう空気を世間に感じないことが、なんとなく不安だ。
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『冗弾の射手(その12)』