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しいたげられたしいたけ

人権を守るには人権を守るしかない。人権以外の何かを守ることによって人権を守ろうとする試みは経験的に全て失敗している

井上ひさし『イヌの仇討』(文藝春秋)

朝日新聞の夕刊に三谷幸喜が『ありふれた生活』というエッセイを連載している。
先週の掲載分に、伊東四朗喜寿を祝って、伊東本人の希望に沿って吉良上野介を主人公とするホンを書こうとしたという話を書いていた。調べたらネットでも読めるようです。ただしログイン必要。(追記:非公開になったようです)
討入り当日を吉良の側の視点から描くというプロットでいろいろ案を練っていたら、井上ひさしがすでに全く同じことをやっていたことを知らされ、衝撃を受けたとのことだった。
で、三谷はその作品『イヌの仇討』を読むのだが、感想が「完全に被っていた。僕がやりたいことを、とっくに井上さんはやってしまっていた。」「ここまで完成度が高いと、手も足も出ない。同じ題材でこれ以上のものを書く自信はまったくなかった。」と、まさに絶賛だったのだ。
読みたくなるよね。で、amazonマーケットプレイスで発注してみた。単行本の価格が1円まで下がっていた。いや送料のカラクリは知ってるけど。

イヌの仇討

イヌの仇討

うーん、確かに力作だと思った。井上ひさしにハズレはない。プロットは練りに練られている。忠臣蔵ものだが、登場人物一覧に大石内蔵助がいないというのがまず意外だ。しかし登場人物の口の端に大石の名が上がり、当然のことながら最初は「貧相な小男」「昼行燈」「無能」「あれぞ誠の不忠者」とケチョンケチョンなのだが、情報がじょじょに追加されるに従ってその人物像がみごとに変容していく。ラストに近づくに至って、キャスティングされていなくても、舞台に姿を見せなくても、大石こそが吉良上野と並ぶこの物語のもう一人の主人公であったということが判明するという仕掛けなのだな。
だけど…多分私は、三谷幸喜が絶賛し打ちのめされたほどには、この作品を読み込めていないぞ。井上ひさしは天才だが、モーツァルトみたいなタイプの天才ではなく、命を削って作品を作り上げていくタイプの人だった。かたや三谷は、自分の仕事である芝居がほんとうに好きで好きでたまらない人で…と空疎なレトリックを重ねる必要はないか。同業者で一流同士と言えば済むことだった。同業者同士だからわかること、一流同士でないとわからないことは、悲しいかなぜってーぜってーあるのだ。
ヘンな例えだけど、素人のファンだったら「あっちゃー、またシンノスケひっかけてゲッツー食らいやがった!ダメじゃん!」としか見えないプレイでも、経験者が見たら「うーむ、フジナミが投げたのは外す気満々の釣り球だったけど、それをバットコントロールでピンポイントのヒットコースに運ぼうとしたのだな、しかしトリタニもそれを読んでいて、あらかじめ守備位置を一歩ずらしていたので体勢を崩さずに送球できたってことか!?」ってなことになるかも知れない。てきとーに書いてますすんません。
私は素人だから、この『イヌの仇討』に関して、いくらでも小賢しい難癖をつけることができる。曰く「大石の討入りの動機は、現代的な価値観を投影して解釈したものを、わりと平凡に踏襲していないか? 現代人の解釈だと、明智光秀は破天荒な革命児である織田信長に我を殺して仕える理知的な常識人として描かれることが多いが、史実では今日の目から見ると残忍きわまりない戦国武将の一人を超えないというのが実像に近いように。やはり元赤穂藩士たちは、仇を討つつもりで討入りしたのではないか」とか、曰く「『イヌの仇討』というタイトルは、もちろんダブルミーニング・トリプルミーニングと何重にも異なる意味に解釈できることはわかるけど、返ってそれがインパクトを落とすことになっていないか」とか、曰く「吉良義央は〔きら・よしなか〕ではなく〔きら・よしひさ〕だぞ」とか…
しかしこの年になってよく思うのは、そんなふうに物語を消費して終わるんじゃなくて、自分の目に見えないものがあって、その見えないものに対しても敬意を払う必要があるのではないかということだ。ただしそう心がけることが何につながるのかは、今のところ皆目わかっていないが。
短く言えば、本を楽しむのにも力が必要という、いつもの結論。
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『冗弾の射手(その14:完結)』