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しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを要求しない

もう一人の自分自身の正体は誰か?(その2)

哲学

言い訳

原稿は全4回分あります。ただし前回提示した問題に対する私なりの一応の結論は、今回の第2回目に示しました。その意味で今回が一旦の完結となります。3回目と4回目は敷衍で、しかも未完結であることを今のうちにお断りしておきます。

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読書サークル会報に公開した文章は、「したらば」にアップした文章と材料は一緒ですが、順序はかなり改変したように記憶しています。結論までをあまり長く引っ張ると読んでもらえなくなることを恐れたからです。

タネ本を示しておきます。 

現象学入門 (NHKブックス)

現象学入門 (NHKブックス)

 

 タネ本と言っても同書の要約とかではなく、ちょうど教科書を読んで自分で応用問題を考えて解答してみたという感覚です。この時期は一般向けの哲学入門書・解説書を集中的に読んでおり、竹田青嗣氏の著作もちくま文庫に入っているものをもう一~二冊読んだ記憶があるのですが、探せば出てくると思いますが今は手元にありません。

 9.

 最初の問いに対する結論を急ごう。一言で言ってしまえばこれだけのことだ。

我々が体験する「現実」とは、「知覚」と「意味」の二重構造を持っている。後者は精神活動のカテゴリーに属する。我々は通常両者の区別の必要性をほとんど意識しないが、両者は区別可能なのである。
 我々は自分自身の精神活動自体をも認識対象とすることができる。この際にも「解釈」→「意味」の抽出という働きは生じる。だがこの結果得られた「意味」は精神現象自体とはあくまで別の存在物であると認識する(我々は「視覚」と「聴覚」を直感的に区別して認識するように!我々は「知覚」と「精神活動」を直感的に区別して認識するように!)。ここに「認識する自分自身」と「認識される自分自身」の乖離を生む構造が発生する。

10.
 月並みな結論である。だが私がこの結論に至ったとき、「自分自身」が存在することに対して感じる不安が消えた。
「自分自身」が存在することは神秘的である。だが私という「自分自身」が存在することの神秘は、私の目の前にパソコンのディスプレイ(の視覚)が存在することの神秘とまったく変わりのない神秘なのである。私という「自分自身」が存在することの神秘は、私の耳に響いているパソコンのファンの音(に対する聴覚)が存在することの神秘とまったく同レベルの神秘なのである。
 個人的な体験である。どの程度の普遍性があるのだろうか…

11.
「自分自身」が存在することに対する不安が消えたことは、私にもう一つの驚きをもたらした。「自分自身」が存在することに対して、なんら不安を抱かないで生きている人も、やはり存在するのだ。「自分自身」の存在の不安をつねに抱きながら生きている人も存在するのだ。どちらがいい悪いということでは一切なく、ただ、どちらのタイプの人も間違いなく存在するのだ。

12.
 私はへそまがりだから、「自分自身の存在」に対する不安が消えると、今度はそれを再生することはできないかと考える人間である。そして、こんなものを思いついた。

 名づけて「存在不安再生装置」。

 材料は、コップと水である。ただしリアルのコップと水でなければならない。想像上のコップと水であっては、絶対にならない。面倒でも本物のコップと水を用意しなければならない。そのくらいは誰にとってもたいした手間ではあるまい。

13.
 目の前に水の入ったコップを置く。
 そして「水、水、水・・・」と頭の中で思い浮かべる。
 当然、水の味が舌に触る感触、冷たさまたは生ぬるさ、カルキ臭かったり生臭かったりする特有のにおいが脳裏に浮かぶ。

 この状態で、コップの水を一口、口に含む。
 いきなり飲み込んでもいい。少しの間、口の中に含んだままにしてもいい。
 そして、水を口に含む直前に脳裏に浮かんだ水の感触と、現実の水の感触を比較するのである。

 我々は、口に含んだ水の感触を、事前にかなり正確に想像できたはずである。
 我々は生まれてから今日まで、何万杯の水を飲んだかわからない。
 しかし、実際に水を口に含んだ感触と、事前に想像した感触は、やはりどこか違うはずである。実際の体感温度は事前の想像よりやや冷たかったかも知れない。実物の匂いは、想像より生臭くなかったかも知れない。

14.
 次に、直前の水の感触を脳裏に浮かべながら、二口目の水を含むのである。
 そして、二口目の水を口に含んだ感触と、脳裏に思い浮かべた直前に含んだ一口目の水の感触を比較するのである。

 今度の両者の相違は、先の場合に比べてうんと小さくなっているはずである。
 なにせ直前の記憶である。また現実のフィードバックを受けて修正された記憶である。正確さは段違いのはずだ。
 それでもなお、二口目の水を口に含んだ感触と、脳裏に思い浮かべた直前に含んだ一口目の水の感触は違うはずだ。これもまた当然である。現実と想像は異なっていて当然だ。

 そこでもう一歩、踏み込んで考える。「現実の水と、想像の水は、どこが違うのだろう?」

15.
 ここで我々は、期せずして自分自身をトリックに嵌めている。二口目の水を飲み込んでしまった後ではもはや二口目の水は「現実の水」ではない。「二口目の水」として我々が脳裏に思い浮かべている水なのである。「現実の水と、脳裏に思い浮かぶ水は、どこが違うのだろう?」と考えているのではなく、いずれも同じく脳裏に思い浮かべた二口目の水と一口目の水を比較しているのだ。

 と、まさしくこれが、「自分自身」をつきつめて考えようとするときに我々が感じる「不安」の正体ではないだろうか?
 我々は感覚器官に刺激の入射を受け取ると、ただちにその複製を脳裏に作成するのだ。好むと好まざるとに関わらず、我々の精神活動は、一瞬も休まずそうした作業を行っている。

16.
 だが感覚器官への刺激と、脳裏に生成された複製物は、やはり別物なのだ。

 そして我々のこの精神活動はメタである。我々の精神活動自体もやはりその対象とする。

 すなわち…我々が自己認識を試みるとき~「自分、自分、自分」と思い浮かべるとき、我々の脳裏には自分自身の精神活動の複製物が自動的に生成される。否が応でも生成されるのだ。そして、我々が自分自身の精神活動の観察を行っている(つもりになっている)とき、我々が観察しているのは、実はこの複製物であることに気づく。

 水の実物は、「水を口に含む」という動作を行ったときにしか知覚できない。
一方我々の精神活動自体は、我々がそれに注意を振り向けたとき直ちに認識対象となる。我々は自分自身の存在を「いつでも口に含むことができる」のである。

17.
「自分自身とは何だろう?自分、自分、自分…いや、これは自分自身じゃない!自分自身とはここにいる自分だ。自分、自分、自分…いや、これは自分自身じゃない!自分自身とはここにいる自分だ。自分、自分、自分…いや、これは…」

18.
 これが、我々が自分自身の存在に不安を感じる理由のすべてだとは言わないが、ある程度の範囲で説明ができないだろうか?

(つづく)