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しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを要求しない

もう一人の自分自身の正体は誰か?(その3)

哲学

言い訳

このへんから、再掲するかどうか迷う内容がどんどん出て来ます。今回は冒頭に唐突にヴィトゲンシュタインなんて名前が出てきたりします。ヴィトゲンシュタイン分析哲学の人で、第一回目にタネ本として述べた現象学とは別系統になります。哲学のある系統と別の系統を接続するのは門外漢の想像をはるかに超える難事で、軽く論文のテーマになりうることです。しかし再三弁明している通り私はただのドシロートで、素人向け哲学概説書はえてしてデカルトカントヘーゲルマルクスサルトルメルロポンティヤスパースフッサールハイデガー等々、1章ごと高名な哲学者をにごたまぜに紹介したりするものです。そういう本を書く著者が悪いんです(責任転嫁

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それはともかく、12年前から私の哲学の勉強が進行していればいいのですが、前回の「間奏曲〔インテルメッツォ〕」に述べた通り関心が脳科学ほかあっち向かいこっち向かい、すっかりお留守になってしまっています。

時間は前後しますが1990年代にはNHKスペシャルの『驚異の小宇宙・人体 2 脳と心』なんてものも放送されたりして、多分世間的にも脳科学がブームみたいになってたんじゃないかなと思います。また相貌失認のような脳の疾患に起因する障害も知られるようになり、我々の意識に脳の器官的な働きが深くかかわっているという知見も一般化してきたように思います。

またしても一冊だけ書影を貼ります。

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

 

 同書は、リンネによる古典的生物分類から筆を起こし、分子生物学の発展の結果「魚類というものは存在しない」という驚くべき結びに至るまでの、分類学の様々な話題を逍遥しますが、同書に紹介される驚くべき知見には「我々が動物を区別するのにも、我々の脳器官の機能が関わっている」というものが含まれます。ネットで「猫認証」というのが話題になったことがあります。ロボットには猫が識別できないことを利用したロボット除けweb技術です。人間にも、ちょうど相貌失認のように、動物の種類が区別できない障害があるのだそうです。さらに驚くべきことに、機械の種類を区別できないという障害もあるのだそうです。動物の種類を区別する脳の器官は、生存競争の必要上、進化の過程で獲得されることは想像できますが、機械の種類を区別する脳の器官というものがいかにして獲得されるのかは、にわかには想像がつきません。

前回のエントリーで「現象学がどっかに行ってしまった」と書いたのは、本来現象学の立場では、こうした自然科学の知見は棚上げしなければならない(現象学用語では「括弧に入れる」)からです。だが今の私の関心の方向からすると、この立場はいかにも物足りなく感じます。しかしその一方で、内観法(自己の意識を観察すること)を主な道具として使用する現象学はじめ古典的な哲学であれば、シロウトでもいっちょ噛みできそうな気がしますが(現実には哲学の蓄積は膨大かつ深遠で、シロウトがその真髄に接近しようと思ったら並大抵のことではないのですが)、相手が脳科学となると、研究室にアクセスできないシロウトにはいかんともすることができず、疎外感をつのらせるばかりなのが悲しいところです。

前置きが少し長くなりました。3回分を貼ります。

 19.

 実はこの稿は、インターネット上の掲示板にとりとめもない形でアップしたものを、まとめたものである。
 短く切った段落の連続という形式は、別にウィトゲンシュタインや、あるいは芥川龍之介あたりを意識しているわけではなく、ただ単に掲示板の投稿に適しているからである。

20.
 その初出の際に、次のようなコメントが寄せられた。

<引用はじめ>
ようするに「鬼太郎の目玉オヤジは、自分の姿を見ることが出来ない」とういことだね(笑)。
目玉オヤジは、鬼太郎や妖怪たちを「視る」ことによって存在し得るわけだ。これすなわち「妖怪の現象学」なり。

デカルトのコギトとカントの先見的主観性とフッセルの志向的意識を、目玉オヤジと同列に論じきれば、立派な修論になるぞ(笑)。
<引用おわり>

21.
 これまでの私の文章では、意識して哲学用語をできるだけ使わないように心がけながら書いてきた。私の乏しい知識と力量では、誤解・誤用は避けられないだろうから。

 それにしてもインターネットはありがたいものである。話題に適当な場所さえ選べば、様々な反応がリアルタイムで返ってきて実に励みになる(辛辣な批評に出っくわして少なからず気勢をそがれる場合もあるが)。

22.
 20の喩えに便乗させてもらうと、目玉のオヤジは自分の姿を見ようと思わなければいいのだけれど、実は我々にはそうはいかない事情があって、我々にはやはり自分の姿を見ようとしてしまう事情、見ないではいられない事情があるわけで、そのあたりをちゃんと説明できれば、(修論云々はともかくとして)自分自身の存在に現に不安を感じている人にとっても「そんなこと、わっかりまへんわ」という人にとっても、ある程度の説得力を感じてもらえるのではないかとは思っているのだが…

23.
 水木しげるの原作からは逸脱するけれど、目玉のおやじには、鬼太郎の毛バリ、チャンチャンコ、リモコン下駄など及びもつかぬものすごい超能力があるということにしよう。
「本質直観のカガミ」というカガミを出すことである。このカガミに妖怪を映すと、たちどころにその妖怪の名前・特徴・得意技・弱点を教えてくれる。

鬼太郎、あれは妖怪なにうじじゃ!普通の人間であればイチコロで死に至らしめる毒舌に気をつけろ!弱点は貧乏じゃ。」
「あれは妖怪やみはかせじゃ!得意技は他の妖怪をコントロールして思うままに扱うことじゃ。人脈を攻撃すると逆上するところが狙い目じゃ」
「あれは妖怪いぬかいじゃ!膨大な知識と読書量が武器じゃ。弱点は、とにかくパニックに弱いことじゃ」

24.
 この目玉のおやじの超能力の、もう一つすごいところは、妖怪が現れたら目玉のおやじ自身が「カガミよ出て来い!」と思わなくても自動的にカガミが出てくるところである。

25.
 ただしやっかいなのは、目玉のおやじ自身も妖怪であるがゆえに、目玉のおやじのまわりには、常に目玉のおやじ自身を映すためのカガミが次から次へと出てくることである。
 しかもさらに困ったことに、目玉のおやじ自身にも「自らの姿が見たい」という願望があるのだ!

26.
 かくして目玉のおやじの周りには、大小さまざま形とりどりのカガミがうずたかく積まれることになる。
 気の毒なことに目玉のおやじは、カガミを覗いては「違う!これはワシ自身ではない。ワシの超能力で出したカガミにすぎんのじゃ!」とくたびれ果てて、自分の出したカガミの山の中にへたり込むのである…

 27.
「じゃ、どうすればいいのか?」という当然の疑問に対する私なりの結論は「そういうものだと理解して受け入れるしかない」という実に実も蓋もないものである。実際我々の得た解釈・理解を「我々自身の精神活動」だと考えても、なんの不都合も生じない。
 よくよく考えてみたのだが、なんの不都合も生じないのだ。
 むしろ積極的にそういう立場を取ることによって、新しい世界観、新しい視点が開けるかも知れないのだ。

28.
 私の歯に合う入門書レベルの哲学関係の本を読むと、それらの著者が哲学に志したのは彼ら自身が「生きる苦しみ」を(それも相当深刻なものを)抱えていて、その苦しみを解決といかないまでもそうした苦しみと折り合いをつけるためにそれぞれの道に入っていたというような意味のことが書いてあるくだりに、どこかで出くわす。もちろん人によってニュアンスは微妙に異なるが。

29.
 タネ本に使っている本の一つ永井均ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)には、こんなことが書いてあった(本当はこの稿が最も多くを負っているのは、ウィトゲンシュタインではなくフッサール初めとする現象学の、それもオリジナルではなく竹田青嗣ほかの手になる入門書・解説書であるのだが、それらについては後にまとめて紹介することにしたい)。

<引用はじめ>
ここでもまた、彼が格闘した問題は、普通の人の視界にはもともと入ってこないような問題だったのであり、この格闘によって彼が到達した地点は、普通の人なら初めから何の問題もなく到達してしまっているような地点だったのである。
<引用おわり>

30.
 元の本の文脈はともかく、このくだりが私にとって特に印象にのこっているのは、突き抜けるにしろあきらめるにしろ「哲学的悩み」と自分なりに折り合いをつけて到達した地点というのは、まさに「普通の人」が最初からいる境地なんだろうなあ、ということがなんとなく感覚的にしっくりと理解できるような気がした時に、ちょうどこの本のこの箇所に出っくわしたからであった。

 31.
 その道の専門家であればともかく、専門家でない一般の人間が、哲学というものに興味を抱き、のめり込むことがあるとしたら、それはいわば「普通の人」と同じスタート地点に立ちたい、(少なくとも本人の主観的には)マイナスの状態からプラスマイナスゼロの状態までたどり着きたい、というのがそのきっかけであることが多いのではないだろうか?
 してみると(他の分野でも同様であろうが)哲学上の難解な用語や概念を、知識を誇るためにひけらかしたり他人を論難するのに使用することの、いかに無意味であることか!
 この稿で、できればあまり哲学者の名前や哲学用語を出したくないと思ったもう一つの理由は、この点にある。

(つづく)