しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

もう一人の自分自身の正体は誰か?(その4)

蛇足

ローカル読書サークル会報に公開した文章は、今回が最後です。ご覧のとおり尻切れトンボです。これは連載が思ったほど評判良くなかったことと、この頃恥ずかしながら読書サークルのメンバーとつまんないことで諍いをやらかして人間関係が悪化し、ほどなく読書サークルからフェードアウトしてしまったためです。

ただし原稿は未公開のものがもう一回分出てきましたので、次回、貼ります。尻切れトンボであることに変わりはありませんが。

前回の「言い訳」に引き続き、脳科学の話をもう少しさせてください。1990年代に放送されたNHKスペシャルの『驚異の小宇宙・人体 2 脳と心』は、実にインパクト強い番組でした。同番組は我々の意識が脳のハード的な器官によって生成されていることを、幾分ショッキングな映像も含めて次々と啓蒙してくれました。

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間奏曲〔インテルメッツォ〕」の回で「短期記憶」という言葉を使用しましたが、『驚異の小宇宙・人体 2 脳と心』のどれかの回では、脳溢血による脳の損傷のため「長期記憶」を失ってしまった青年が登場しました。脳の「海馬」と呼ばれる部分がダメージを受けたため、短期記憶は失われていないが短期記憶を長期記憶に変える機能を失くしてしまったのだそうです。会話とかは一応普通にできるように見えるのですが、5分くらい前のことを覚えていられないのだそうです。そこで、コンパクトなテープレコーダー(当時はボイスレコーダーがまだなかったため)に自分の声を吹き込んだり、メモができるよう家じゅうの壁に紙を貼り今何をしているかを書き留めたりしながら生活をしている様が放送されました。料理をしているときなど、今自分が何をしているか書き留めておかないと忘れてしまうのだそうです。そして一日の終わりには、テープレコーダーやメモの内容を膨大な日記に書き、自分が誰であるかの記憶を物理的に残す努力をしているとのことでした。

博士の愛した数式 (新潮文庫)

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 2004年の第一回本屋大賞を受賞したこの名作の主人公は、この番組に登場した青年をモデルにしているのではないかと密かに思ったりしました。記憶障害のある主人公と言えば、昨今では西尾維新の掟上今日子シリーズが話題になっていますが、こちらは未読です。

 『驚異の小宇宙・人体 2 脳と心』の他の回には、脳疾患により大脳の片側の半球の新皮質を失ってしまった若き画家が登場しました。彼は新皮質が失われたのと反対側の手足に運動障害があり、また視力を測定すると焦点を中心に視野が半分欠けていることがわかったそうです。そこで無意識に視点を頻繁に移動することにより、見えない側の視界を補っているとのことでした。

彼らのその後の人生が幸多きものであることを全力で祈らないではいられぬと同時に、我々の記憶やクオリアが脳という器官=ハードウェアの生成物であることを見せつけられたことが衝撃的で忘れられません。

あれから約20年、医学がかつてのガンに代わって認知症に対し総力戦を挑んでいる現代において(もちろんガンは現代もなお決して侮ることのできぬ人類の大敵ですが)、脳科学はさらに長足の進歩を遂げていることと思われます。すると、我々の意識とは何か、我々の存在とは何かという問いに対して、最も有効にアプローチするのは哲学ではなく脳医学や脳科学ではないかという思いが起こります。そもそもこれらの問いにはどのような解がありうるのか、これらの問いにどのように答えたら解答したことになるのかは、それ自体もまた問いのようにも思えます。そして、前回のエントリーでも述べたとおり、医学者でも脳科学者でもない身としては、仕方のないことといえ研究の現場に参画できない疎外感、無力感を感じないではいられない部分もあるのです。

 32.

 ウィトゲンシュタインの名前を出してしまったついでに、息抜きのつもりでこんなパズルを紹介したい。

【問題】
 某大学の「論理哲学」の講義の期末試験に、こんな試験問題が出題された。
「論理哲学の試験問題としてふさわしい問題を作成し、模範解答を作れ」
 サボリ学生のW君は、この講義に一度も出席しないで、試験だけを受けに来た。
 もちろんW君は「論理哲学」について何の知識もない。
 しかし、W君は、この試験に、とりあえずつじつまだけは合う答案を書き込んだ。
 W君の答案がどんなものか、想像せよ。

【解答】
 W君の作った問題は、こうだ。
「論理哲学の試験問題としてふさわしい問題を作成し、模範解答を作れ」
 担当教官の出題した問題そのものずばりだが、剽窃はいけないとは問題文のどこにも書いてない。
 そして、この問題がOKなら、それに対する模範解答は、こうだ。
「論理哲学の試験問題としてふさわしい問題を作成し、模範解答を作れ」

33.
 パズルとしての難易度はたいしたことはない。インターネットの掲示板で出題したところ、あっさりと正答が寄せられた。
この「論理哲学」なる担当教官がW君に合格点をつけるべきか否かに着目した場合の方が、パズルとして難易度はより高くなるのではないか。

 これが他の講義であれば、担当教官が迷うことはない。W君の講義内容に関する知識はゼロであると判断して不合格とすればよい。
 しかしもしこの「論理哲学」なる講義が、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を踏まえたものであったなら、このパズルはたちまち難易度Aの難問に変貌するはずだ。
 担当教官はW君が『論理哲学論考』中の重要概念の一つ「トートロジー」(=恒真命題、内容に関わらず真となる命題)を踏まえてこの答案を書いたのか、それとも単なる詭弁、言葉遊びの一種としてこの答案をでっち上げたにすぎないのか、判断するすべを持たないからである。

34.
 閑話休題。自分語りを許していただけるなら、私は5~6歳ごろから「じぶん・じぶん・じぶん…」と考えていくと、恐怖のような、不安のような、不快のような感覚に襲われることを知っていた。
 そして、この感覚から逃れるには考えるのを止めるしかないことも体験的に知っていた。

35.
 ずっと長じて、自分と同じように悩む子が他にもいることを知った。
 自分と違って悩まぬ子もいるのだということを知った。
 前者の存在を知ったときより、後者の存在を知ったときのほうが衝撃的であった。

36.
 余談のように見えるかも知れないが、私が一番語りたかったのはこの「自分語り」なのかも知れない。

 子どもはみな哲学者だという。子ども向けに宇宙マンガや宇宙SFを見せるのはいいが、子どもは案外「宇宙の果てはどうなっているのだろう?」「宇宙に果てがあるなら、その向こうはどうなっているのだろう?」「宇宙の果てに向こう側があるのなら、その向こう側にはまた果てはあるのだろうか?」といった堂々巡りに悩んでいるのかも知れない。悩んでいないのかも知れない。
 子どもにタイムマシンを教えるのはよいが、子どもは案外「時間の始まりはいつだろう?」「時間に始まりがあるなら時間の始まる前はどうなっていたのだろう?」「ではその「時間の始まる前」の始まりはいつだろう?」という堂々巡りに悩んでいるのかも知れない。悩んでいないのかも知れない。

37.
 私は悩む子だった。

「カント」という名を教えてくれる大人が、当時の自分のまわりに一人くらいいなかったものかと思うことがたまにある。「アインシュタイン」や「ホーキング」の名よりも、子どもにとっては直接の救いになったのではないかという気がする。
 救いにならなかったかもしれない。「空間」「時間」が元来カオスである「客観」を理解するための「道具」にすぎないという説明を、子どもが受け入れてくれるかどうか?「宇宙の果ての向こう」「時間の始まる前」という問いに含まれている自家撞着を、子どもが理解できるかどうか?「で、けっきょく宇宙の果ての向こうはどうなっているの?」「で、けっきょく時間の始まる前はどうなっていたの?」と問い直されるだけだったかも知れない。

 だが、それにしても一人くらい…

38.
 Ⅱ-10~11.で述べたとおり「自分自身」が存在することに対する不安が消えたことは、同時に私にもう一つの驚きをもたらした。「自分自身」が存在することに対して、なんら不安を抱かないで生きている人も、「自分自身」の存在の不安をつねに抱きながら生きている人も、どちらのタイプも存在することに、いやおうなく気づかされたのである。なぜならその双方が、私自身の中で並存可能であるから。

39.
 どちらがいい悪いということは一切ない、どちらのタイプの人も間違いなく存在するのだ。宇宙の果てを考え悩む子どもと考え悩まぬ子どもの両方が存在するように。時間の始まりを考え悩む子どもと考え悩まぬ子どもの両方が存在するように。
いや、私は以前からその事実をうすうす知ってはいたのだ。ただこれまでにないリアリティとともに納得できるようになったというだけだ。

40.
 Ⅱ-17.で述べた自家撞着の構造は、まさしく「宇宙の果て」や「時間の始まり」に悩む子どもの心理と構造的に相似形ではないか?

「宇宙に果てがあったら、宇宙の果ての向こうはどうなっているのか?いや、宇宙の果てに向こうがあったら、それは本当の宇宙の果てではない。では、本当の宇宙の果ての向こうはどうなっているのか?いや、宇宙の果てに向こうがあったら、それは本当の宇宙の果てではない。では…」

「時間に始まりがあったら、時間の始まりの前はどうなっているのか?いや、時間の始まりに前があったら、それは本当の時間の始まりではない。では…」

41.
 と言うか、子どもでも悩むよね?

42.
 ところでこの「自家撞着の構造」(または「自己言及の構造」あるいはより広く「無限ループ構造」と言うべきか)は、形を変え数学・論理学・哲学の歴史上に繰り返し登場する。「クレタ人のパラドックス」(=あるクレタ人がこう言った「クレタ人は嘘つきである」。このクレタ人の言葉は正しいか嘘であるか?)から、「ゲーデル不完全性定理」に至るまで。

(つづく)