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しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを要求しない

もう一人の自分自身の正体は誰か?(その5:たぶん完結)

哲学

蛇足

未公開の原稿をアップします。前回分と同様、問題を無駄に拡げただけで畳もうとしていません。「間奏曲〔インテルメッツォ〕」で述べた通り、問題を相対化あるいはワン・オブ・ゼムにしようとの試みです。

私なりの「もう一人の自分自身の正体は何か?」という問いに対する結論は、自分自身を「意識のクオリア」と「意識のクオリアの短期記憶」の複合体と考えると、自分自身を認識しようとしたとき「意識のクオリアの短期記憶」の方のみを認識しようとし、それが「意識のクオリア」とは別物だと考えて無限ループに陥る、というものでした。「無限ループ」より、「無限後退」という哲学の言葉を使った方がいいのかも知れませんが、用語の厳密な定義ができないシロウトなので、いい加減な定義のまま「無限ループ」という言葉で押し通します。

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話は脇にそれますが、太宰治の『女生徒』という愛すべき短編に、こんなくだりがあるので、忘れないうちに書き留めておきます。青空文庫( http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/275_13903.html )からです。

 いま、という瞬間は、面白い。いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、あたらしい「いま」が来ている。

 ここで言う、指でおさえている「いま」は短期記憶の「いま」であり、あたらしく来ているという「いま」が意識のクオリアの「いま」です。

話を戻します。「宇宙の果て」「時間の始まり」などは、無限ループの発生構造は違うがやはり無限ループであると言いたかったわけです。もう一つ「物質を構成する究極の粒子は何か?」という問いもあって、これも無限ループを成します。つまりもし物質を構成する究極の粒子が発見されたとしても、その中身はどうなっているかをさらに問うことができるのです。

「宇宙の果て」「時間の始まり」「究極の粒子」いずれも、古来より現代に至る物理学の最先端テーマでした。そして現代においても、日々、驚くべき物理学の進展と新知見の報告が次々になされています。

それとは別に、「果たしてその問いは妥当であるか」あるいは「問い自体を問うこと」の画期的な検討をおこなったことで高名なのが、前回名前を出したカントでした。

例によって一冊だけ書影を出します。入門書の定番どころだと思います。 

カント入門 (ちくま新書)

カント入門 (ちくま新書)

 

 

 カントの結論の要約をここで語るのはやめておきます。自分なりに語ってみたいという欲求はあるのですが、満足がいくまで語りつくすには、これまでと同量かそれ以上の分量が必要になりそうだからです。

雑に言います。カントにおいては「時間の始まり」と「宇宙の果て」は「第一アンチノミー」、「究極の粒子」は「第二アンチノミー」として扱われます。「アンチノミー」は二律背反と訳されます。「第三アンチノミー」は「自由意志というものは存在するのか」です。これも雑に言っています。

NHKスペシャル『驚異の小宇宙・人体 2 脳と心』を引き合いに出しながら述べた通り、脳科学の進展により我々の意識は脳の器官の生成物であるということが、否応なく突きつけられてきました。脳半球の新皮質が壊死すると、その部分の視界のクオリアも失われてしまうであるとか、脳溢血により海馬が破損すると、短期記憶を長期記憶に写し変えることができなくなるであるとか。『驚異の小宇宙・人体 2 脳と心』の他の回には、やはり脳の損傷によって「動き」というものが認識できなくなった女性が登場しました。NHKのビデオによる再現なので女性の主観に照らしてどの程度正確なのかはわかりませんが、視覚が静止画像のコマ送りのように見えるため、車が行き来する往来を歩行することが危なくてできないのだそうです。

我々の意識がそれだけ脳という器官に依存するのであれば、そもそもなぜ意識などというものが存在するのか不思議に思えてきます。コンピュータのプログラムのようなものであってもかまわないような気がします。しかし意識は存在するのです。

また、物理学者は宇宙が決定系であると口を揃えます。決定系であるにもかかわらず予知不能であるのは、バタフライ効果などカオス理論で知られるように微細な初期値の差異が結果に極大の影響を及ぼすことがあるので、正確な予知を行おうとしたら宇宙と同じサイズのシミュレータが必要になるからだそうです。

でもそうすると、罪人は逃れがたい運命によって犯した罪の結果を罰せられるのでしょうか? 刑法的な罪を犯さないまでも、後悔というものを持たない人間はいません。我々は、逃れがたい運命の結果犯した過ちを、ずっと後悔しつづけなければならないのでしょうか? 「それ何て罰ゲーム?」ってやつです。

こうした自由意志の問題、決定論の問題に対しても、哲学者たちは古来格闘を続けてきたんですよね。カントの「第三アンチノミー」だけでなく、カルヴァンの決定論であるとか、それを踏まえたウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などが、すぐに思い浮かびます。

前回のエントリーで、脳科学の研究の現場に参画できない疎外感、無力感を開陳しました。同様のことが宇宙物理学、素粒子物理学に関しても言えると思います。しかし「問い自体を問うこと」など哲学者たちのアプローチを振り返ることは、現代脳科学や現代物理学の報告を待ちながらでもできることではないか、否、諸科学がこれほどまでに発展した現代においてこそ、ことさらに重要な意味を持つのではないか、と少し反省したため、したためてみた次第です。

43.
 論理学・哲学など諸学の歴史上に繰り返し登場する「自己言及の構造」を概観・紹介することは、この稿の役目ではない。さまざまな解説書が出版されているので、ご興味のある向きはご参照願いたい。それらを渉猟するのは私の大いなる楽しみの一つでもあるのだが。

 私が目を通した範囲ではあまりお目にかかったことがなく(=そこそこオリジナリティがあるから?)、なおかつ(少なくとも私個人にとっては)自分の人生観、生き方、生きる態度を決める上で少なからぬ契機ともなった話題があるので、それを紹介したいのである。
 さきの自己認識をめぐる問題と、やはりある意味で相似した構造を持つものである。

44.
 クイズの形式で示してみようと思う。これも初出はインターネットである(正確にはインターネットが普及する以前に人気のあった、パソコン通信の「フォーラム」と呼ばれるサービス。なおパソコン通信とインターネットは、サービスの内容は似たものが多いが技術的には別物)。

【問題1】
 江府紫蘇夫クンは、いつも友達から「変わり者」だと言われています。気の弱い紫蘇夫クンは、いつしか「ひょっとしたら自分は気が狂っているのではないか」と思い悩むようになりました。
 ある時、その悩みを思い切って学校の先生に相談すると、こんな言葉が返ってきました「本当に気が狂っている人は、自分が気が狂っているなんて思わないものだよ」。
 先生のこの言葉を聞いて、紫蘇夫クンは一時安心したのですが、後になってこんなことを思いつきました「あれ?今ボクは、自分が気が狂っているとは思っていない。だから、ひょっとしたら今こそボクは気が狂っているのかも知れないぞ!?」

 江府紫蘇夫クンの疑問を図示すると、下記のようになります。

命題A「ボク(紫蘇夫)は自分が気が狂っていると思っていない。従ってボクは気が狂っている」
    ↓↑
命題B「ボク(紫蘇夫)は自分が気が狂っていると思っている。従ってボクは気が狂っていない」

 紫蘇夫クンは今、抜け出すことのできないジレンマに陥っています。こんなことを考えるのは気が狂っているからなのでしょうか?しかし紫蘇夫クンは、上記のロジックからすると、気が狂うことさえできないみたいではないですか?
 思い悩む余り、先ほどのやさしい先生に、もう一度相談する勇気もなくしてしまった紫蘇夫クンに、みなさんからのアドバイスをお願いします。

45.
 問題1とほぼ同じ構造を持つクイズだが…
【問題2】
 江府紫蘇夫クンは、実は学校の成績はたいへん良いのです。彼は内心それを得意に思っていることは事実なのですが、友達から「紫蘇夫は成績がいいので思い上がっている」と言われると、大変な抵抗を感じます。謙虚という言葉を知らず、自分の長所を自慢する人を、紫蘇夫クンは大変軽蔑しているからです。
 ところがある日、紫蘇夫クンは自分の考えに矛盾があることを発見しました。
すなわち、紫蘇夫クンは、自分が他人より優れていると思わないように努力しているのです。しかしなぜそうするかというと、紫蘇夫クン自身そのような努力をすることが、他人より優れていることになると思っているからにほかならないのではないでしょうか!?

 江府紫蘇夫クンの疑問を図示すると、下記のようになります。

命題A「ボク(紫蘇夫)は自分が他人より優れていると思っていない。従ってボクは他人より優れている」
    ↓↑
命題B「ボク(紫蘇夫)は自分が他人より優れていると思っている。従ってボクは他人より優れていない」

 さあ、また自家撞着です。紫蘇夫クンの悩みを放置すると、彼はほんとうに気が狂ってしまうかも知れません。どうかみなさん、彼にアドバイスを!

46.
 問題2の「パラドックス」(?)は、高校時代にドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいて思いついた。
罪と罰』の初めのほうに、主人公ラスコリーニコフと酒場で出会った酔漢マルメラードフが、主人公に次のような意味のことを問わず語りに語る場面がある「最後の審判の日に、自分のような人間にも最後の最後にキリストは救いの手を差し伸べてくれるはずだ。なぜなら自分は自分自身がキリストの救済に値しない人間であるということを誰よりもよく知りぬいているからだ」
当時はこの「パラドックス」(?)に勝手に「マルメラードフの優越」などという名称をつけて悦に入っていた。
 同じようなモチーフが、宮沢賢治『どんぐりと山猫』、柴田翔『ノンちゃんの冒険』など、文学作品にしばしば登場することを知ったのは、それから程なくしてのことだった。

47.
 問題1、問題2はいずれも、命題Aに関して「Aだと思う→非A」と「非Aだと思う→A」という二つの前提が同時に成立すると、命題Aそのものと命題「Aだと思う」が区別不能だという点から「パラドックス」が発生するのである。
 ただし論理学的には、ある個人について「Aを信じる」と「非Aを信じる」の両方が成立していたとしても、それは個人の信念に不整合があるというだけで「パラドックス」ではないのだそうだ。

48.
 なお論理学の力を借りれば、問題1の方の解決はそんなに困難ではない。命題Aが真であったとしても、命題Aの否定が真であるとは限らない。
 仮に「気が狂っている人間は、自分が気が狂っていると思わない」という命題が真であったとしても、その否定命題「自分が気が狂っていると思わない人間は、気が狂っている」が真であるとは限らないのである。

49.
 しかし論理学的にはそれで解決がつこうとも、現実のシチュエーションで我々が困惑することは、やはりありうる。

 なんらかの原因で、我々が今自分が優越を感じたことに気づいたとする(問題2では、主人公・江府紫蘇夫くんがテストでいい点を取った)。
 さらに、やはりなんらかの理由で、我々は「自分が優越を感じたこと」を「正当なことではない」と感じたとする(江府紫蘇夫くんは、テストでいい点が取れたからといって、いい気になるのはおかしいと考える)。

 このとき我々は、「優越を感じた自分自身を否定的に評価することによって優越を感じる自分自身」の存在に気づいて、困惑するのである(江府紫蘇夫くんは、これじゃ自分は「テストでいい点を取っておきながら、テストなんてたいしたことないよとうそぶく、ただのイヤな優等生」なんじゃないかと悩む)。

(つづく)