しいたげられたしいたけ

人権を守るには人権を守るしかない。人権以外の何かを守ることで人権を守ろうとする試みは歴史的に全て失敗している

もう一人の自分自身の正体は誰か?(後奏曲〔ポストリュード〕)

「その5」の末尾が(つづく)だったので誤解を招いたようですが、「もう一人の自分自身の正体は誰か?」の残っている原稿は、あれでおしまいです。続きはありません。

ただし書いた本人が12年の経時劣化を伴って存在していますので、もしご質問、ご意見等あれば、コメント欄やブックマークコメントなど何らかの形でお寄せください。なんとか頑張って回答を試みます。その回答がご納得のゆくものであるかは保証の限りではありませんが。まあ経時劣化する前も後も大して変わりはありませんが…ってほっとけや。

 今回のエントリーは上記太文字の一行が書きたかったために起こしたようなものです。しかしとっ散らかした話題を散らかしたまま片付けようともしないのも気が引けるので、ちょっとだけ片付けようという態度だけは見せておこうと思います。

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散らかした話題というのは主に無限後退の問題ですが、一つ一つにちゃんと解答しようと思ったら、どれもかなりの手間がかかるのみならず、どれも新たな問題の入り口となりうるものです。無限後退が構成されるしくみも違うので、一つの問題への解答が別の問題に直ちに適用できるとも限りません。しかしやってみる価値はあると思っています。

例題として、ウィキペディア無限後退 - Wikipedia」の項に例示されている「ホムンクルスの誤謬」を扱ってみたいと思います。これは脳科学の一般向け解説書にも、しばしば出て来ます。

脳の機能を研究すると、大脳皮質が、視覚を始めとする五感の再生にそのリソースの大部分を費やしていることがわかってきました。そうすると、脳内で再生される視界を誰が見ているかという疑問が生じます。もっとも安易な仮説は、脳内に存在する小人(ホムンクルス)を仮定することです。すると、その小人にも脳があるはずで、その脳内にはまた小人がいるのではないかという仮説が可能になり、無限後退が発生します。

この無限後退は、次のように考えることにより解消可能です。脳の外部の世界は、我々が視覚したり聴覚したりするのと同様の形態では存在しないのです。我々の脳の外部に存在するのは、無限小から無限大のレンジにわたる物理波のみで、その一部を五感と脳のフィルタを通して再構成したのが我々の感知する「世界」なのです。

我々の視覚は、電磁波と呼ばれる物理波の一種のうちの、さらに限られた周波数帯域を目から取り込んで、脳内で処理し再構成を行ったものです。我々の聴覚は、分子と呼ばれる物質波の振動の、さらに限られた周波数帯域を耳から取り込んで、脳内で処理し再構成したものです。

ここで重要なのは、再構成の結果は再構成を行う器官に依存する点です。今から20年ほど前、CTスキャンが一般化し始めたころに、電機メーカの社内報でCTスキャンの原理を説明する記事を読んだことがあります。CTスキャンはご存知の通り、人体など被写体にX線を回転させながら照射することにより、人体内部の内臓や骨格などを撮影する技術です。

社内報に掲載された挿入図の写真を見て、私は激しく衝撃を受けました。社内報はとっておこうと思ったのですが紛失してしまったので、下に示すのは記憶を頼りに描いた概念図です。左側に示したのが、CTスキャンが取り込んだデータを極座標グラフにしたもの、つまりCTスキャンが「見た」ままのものであり、右側はそのデータにに複雑な数値処理を行って画像にしたもの(胴体の輪切りのつもり)です。繰り返し述べますが記憶に頼って自分で描いたものなので、正確さについて一切の保証はできません。

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CTスキャンは回転しながらX線を照射しその強弱を測定するので、その結果をそのまま図にしても、ご覧のようなチクチクしたウニのようなものにしかならないのです。数学的処理によって通訳可能とはいえ、機械に見えているものと人間に見えているものは、まるで違うことがありうるのです。

ここで強く想起されるのは、カント哲学の「物自体」という概念です。

「物自体」というのは、カントが我々の知覚(カントは「経験」という言葉を多用しましたが)の背後にあると仮定した存在で、我々は「物自体」に能動的に働きかけを行うことによって知覚or経験を得るのであり、「物自体」そのものは知覚も経験もできないということだったと思います。間違ってたらごめんなさい。詳しい人教えてください。

先に「物理波」あるいは「電磁波」「物質波」という物理学の用語を使いました。これらは我々の知覚に比べたら「物自体」に近いかも知れませんが、やはり「物自体」ではありません。電磁波も物質波も、物理学者が目や耳の感覚器官を使う代わりに、様々な測定機器を使って観測したデータに、便宜的につけられた名前にすぎないからです。

カント哲学は、この「物自体」という概念を武器の一つとして、快刀乱麻のようにアンチノミーに斬り込んでいきます。その結果、哲学界に大論争を巻き起こし、それは現代にまで影響を及ぼします。

話はそれますが、カントは「カント-ラプラスの星雲説」と言って太陽や地球の起源にも驚くべき予見を行っているんですよね。今から200年以上前に死んだこの哲学者の天才性は、そら恐ろしくすら感じられます。

以上、何が言いたかったかというと、一つの問題に曲がりなりにも解答を与えようとしたら大変なエネルギーが必要であり、またその解答はややもすると、というよりほとんどの場合新しい問題を生むものだな、という再確認です。とっ散らかした問題の収拾は無理ですごめんなさいと言いたかっただけかも知れません。

ただし誤解してほしくないのですが、そのような知的活動を決して不毛だと言うつもりはありません。それが偉大なる先人たちの知的遺産の理解につながることはあると思いますし、何より自分自身の哲学的悩みや不安に折り合いをつけること自体に価値があると考えるからです。たとえそれにより「到達した地点は、普通の人なら初めから何の問題もなく到達してしまっているような地点だった」(「その3」より)としてもですが。

もう一言だけ。哲学的な悩みや不安は、大人だけでなく子どもの心にも宿りうるものです。むしろ逃れる手段を持たない子どものほうが、苦痛は深刻だと思います。もしそのような子どもを見かけたら「そういう問題には、昔から偉大な天才たちが取り組んできたんだよ」「決して解答のできない問題ではないんだよ」「そういう問題に解答すると、新しい問題が生まれることはあるけど、でも人類はそうやって文明を発達させてきたんだよ」などと語りかけると、それによって直ちに納得してくれるとは思いませんが、子どもの不安、特に孤独感による不安を少しは和らげてあげられることもあるんじゃないかなと愚考する次第です。

(おわり)