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謎解き日本のヒーロー・中国のヒーロー(中国編その4)

連番「その11」通算第13回目です。前回、番外編を差し挟んだので、連番と通算のずれが2になってしまいました。

 01887/01887 CXX02375 わっと 中国のヒーローの条件4・放浪する

( 3) 98/04/07 21:37

 なにせ中国大陸は広いもので…

( 周 )文王・姫昌   …西方・岐山より殷都に入貢した姫昌は、紂王によ
           り南方のユウ里(「ユウ」は「美」の下半分が「大」の代わり
           に「久」)に幽閉されます。釈放された姫昌は殷討伐
           の軍を発するのですが、殷都北東の耆(き)国で軍
           を返すなどして、生前に宿望を果たすことはでき
           ませんでした。
(春秋)斉の桓公  …暴君であった兄・襄公(じょうこう)の迫害を怖れ
           て、キョ国(「キョ」はくさかんむりに「呂」)に亡命して
           いました。襄公没後、同様に魯国に亡命していた
           兄・糾(きゅう)と位を争い、間一髪勝利を得まし
           た。
(春秋)晋の文公  …父・献公の晩年の愛妾である驪姫(りき)の、我が
           子を即位させようとする陰謀から逃れるため亡命
           し、実に十九年にも及ぶ有名な放浪生活を送った
           のち、母国への帰還と即位を果たします。
(春秋)孔子    …母国・魯で一旦は大司寇(だいしこう・法務大臣)
           にまで任ぜられますが、主君である定公から疎ま
           れ、自分の理想の政策を実現できる国を求めて十
           四年にわたる放浪生活を送ります。
(戦国)魏の信陵君 …魏の兵権を奪い、趙都邯鄲(かんたん)を包囲する
           秦軍をうち破るのに成功した信陵君ですが、兵権
           を奪われた兄・魏王の怒りを怖れて十年にわたり
           趙にとどまらざるを得ませんでした。
( 秦 )始皇帝    …少年時代に趙で人質生活を送っています。
( 漢 )高祖・劉邦  …南方の沛(はい)出身。秦討伐戦において、楚王(じ
           つは項羽の傀儡)の「関中(函谷関の西・秦の本拠
           地)攻略者を関中王にする」という約束にしたがい
           関中一番乗りを果たしますが、項羽によってその
           約束を反古にされ、代わりに漢中の地を与えられ
           ました。しかしやがてそこを脱出し、項羽と雌雄
           を決する決戦に打って出ます。
(三国)蜀先主・劉備…益州に蜀漢を建てるまでに、徐州の主・陶謙(とう
           けん)、曹操、冀州(きしゅう)の主・袁紹(えんしょ
           う)、荊州(けいしゅう)の主・劉表らを次々と頼っ
           て身を寄せています。
( 唐 )三蔵法師玄奘…教典を求めて天竺へ長い長い旅に出ます。
( 宋 )呼保義宋江 …殺人や、あるいは手慰みに落書きした詩の中に
           「逆賊を讃えている」と解釈できる箇所があった
           ことから反逆の疑いをかけられたため、官吏の追
           求を受けるところとなり、逃亡の末にかの治外法
           権・梁山泊に逃げ込みます。
( 明 )太祖・朱元璋 …世に出る前、父母が病没・一家離散し、出家して
           托鉢僧になりかろうじて露命をつないでいます。
(近代)毛沢東   …世に名高い「長征」。

98/04/07(火) わっと(CXX02375)

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孔子はどんな人だったか? 出典は失念しましたが「就職予備校の辣腕先生」という意味の表現を読んで、膝を打ったことがあります。私立大学で学生を有名企業に押し込むのがうまい教授と譬えてもいいかも知れません。

 小国が分立していた春秋時代は、各国が生き残りをかけて有能な人材を抱えようと血眼になっていました。孔子はもともと自ら魯国の大臣をやっていた人物なので、政界の内実を知り官僚登用のノウハウもあったと思われます。孔子の弟子と言えば、若くして死んだ顔回や中島敦『弟子』に悲劇的な最期が描かれる子路がまず思い浮かびますが、希望通り仕官を果たし栄達を遂げた弟子も少なくなかったのです。

四書五経のうち『孟子』以外は、孔子の言行を弟子たちがまとめたもの、あるいは孔子自らが編纂したものと言われています(むろん反論は諸説あります)。漢王朝が儒教を国教として採用し、隋唐王朝が科挙の出段範囲を四書五経からと定めたことから、中国のみならず東アジア各国が受けた文化的な影響は巨大なものがあります。孔子と言えば『論語』というイメージもありますが、私は個人的には、ちょっとかじってみるには『大学』から入ると面白いんじゃないかと思っています。我々に馴染みの深い言葉の語源は、『論語』からのものも多いんですが、『大学』は密度が『論語』以上です。以下、岩波文庫『大学・中庸』から引用してみます。 

大学・中庸 (岩波文庫)

大学・中庸 (岩波文庫)

 

まずは開巻一番の一章一節から「大学の道は、明徳を明らかにするに在〔あ〕り」明徳義塾って学校がありますよね。

一章二節には「修身、斉家、治国、平天下」の語源となった部分が出て来ます。原文はちょっと長いです。「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲〔ほっ〕する者は先〔ま〕ずその国を治む。その国を治めんと欲するものは先ずその家を斉〔ととの〕う。その家を斉えんと欲するものはその身を脩(修)〔おさ〕む。その身を脩めんと欲するものは≪後略≫」実はまだ長い続きがあるんですが省略します。

二章一節には「小人閒(閑)居して不善を為す」が出て来ます。同じく二章二節に出て来る「十目の視る所、十手の指〔ゆび〕さす所」という文句は太宰治『トカトントン』のラストにも引用されますが、原典では「君子は大勢の人間に見られている」という意味で用いられています(太宰は「誰にも弁護できない恥ずかしいざま」という形容に使っていますが)。

二章二節には「有斐君子」という言葉が出て来ます。有斐閣という出版社名は、ここから採っています。岩波文庫では「有斐〔ゆか〕しき君子」と読ませて「ゆたかな才能の君子」と現代語訳しています。

同じく二章二節には「切磋琢磨」も出て来ます。原文は少し長いです。「有斐〔ゆか〕しき君子は、切るが如く磋〔みが〕くが如く、琢〔う〕つが如く磨〔みが〕くが如し」現代の「切磋琢磨」はライバルが競い合って才能を伸ばし合うニュアンスですが、原典は君子が一人で努力するさまを述べているんですね。

『大学』はもともと『礼記』のうちの一編を独立させた書なので、短いです。こんなふうに興味本位で読んでいると、あっと言う間に読み終えてしまいます。

四書のうちでは『大学』を最初に学び『中庸』を最後に学んで五経に進むのが、かつての標準的なカリキュラムだったそうです。『大学』から採られた言葉が多いのは、そのせいかも知れません。

そもそも “university” 、“college” に当てられる訳語「大学」も、実は元はこの書のタイトルかも知れないと思ったのですが、ネットで検索するとヒットするページが膨大なので、ネット検索では確認が難しそうです。

李陵・山月記・弟子・名人伝 (角川文庫)

李陵・山月記・弟子・名人伝 (角川文庫)