🍉しいたげられたしいたけ

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自己言及のパラドックスについて

目下「はてな」では、ブックマークコメントで遊んでいる時間が一番長い。
100字という制限の中に、自分でも意外なほどの情報量を詰め込むことができるのが、案外楽しいのだ。
例えば、漫画家の 小島アジコ さんところのブログほかブコメに何度か投入したネタだけど…

"私は偉いと思う故に私は偉くない" ⇔ "私は偉いと思わない故に私は偉い"
"私は狂ってると思う故に私は狂ってない" ⇔ "私は狂ってないと思う故に私は狂ってる"
… "私はAだ" と "私はAだと思う" 区別不能による自意識のparadox

読みやすくするために改行と空白を加えています。
これは実はかつて、もう20年くらい昔になるのか、インターネットが普及する前のパソコン通信の時代に、niftyのフォーラムと呼ばれる掲示板サービスに投入して、けっこう受けが取れたんじゃないかと思ったネタである。
「謙遜とか自分を卑下するとかいう行為は、謙遜している自分、卑下している自分が『偉い』と思うからやっていることじゃないか?」であるとか…
「自分は狂っているのではないかと心配している相手を『狂人に自分が狂っていると思っている奴はいない』と慰めることは無意味ではないか? なぜなら相手が『自分は狂っていない』と考えるようになったら、それによって相手が狂っているという可能性が再び生じるので」であるとか…
いろいろと冗長な情報を加えて分量を増やしていたが、枝葉を切り落とせば100文字で書けてしまう内容だったのだ。
もっと短く「自分で自分の正しさを証明することはできない」と言うこともできる。ただしこれでは「『〜である』と『〜だと考える』が区別できない」という、このパターンの問題の本質が表現できない嫌いはあるが。
「Aである」と「Aだと考える」が区別できないことにより、「もし『Aだと考える』ならば『Aの否定が成立する』」という命題は、ことごとく無限ループになるというのが本質なのだ。
だから「もし『私は自分が偉いと思う』ならば『私は偉くない』」と「もし『私は自分が偉いとは思わない』ならば『私は偉い』」という命題のペアや…
「もし『私は自分が狂っていると思う』ならば『私は狂っていない』」と「もし『私は自分が狂っていると思わない』ならば『私は狂っている』という命題のペアは、パラドックスを構成する。
実際には「偉い」や「狂っている」という言葉が、たかだか二つばかりの命題で定義できるわけがない。「自分は偉い」ことを認識している本当に偉い人も、「自分が狂っている」とは思っていない本当に狂っていない人も、いくらでも存在するだろう。
ときに、この構造(『〜である』と『〜だと考える』が区別できない)を適用することによって、有名なパズル「死刑囚のパラドックス」の解釈ができるのではないかと考えたことがある。思いついたのはずいぶん前だが、多分ネットには書いたことないし、また100字では書ききれないので、ブログのネタにしようと思う。
「死刑囚のパラドックス」というのは、以下のようなものである。
   *       *       *
ある死刑囚が、月曜日の朝、看守から次のように告げられた
「お前の死刑は次の日曜日までに執行される。死刑が行われる日は、その日の朝に告げられるまでわからない」
これを聞いた死刑囚は、自分の死刑を執行することは不可能だと思って喜んだ。
なぜなら次の日曜日に死刑を執行することはできない。土曜日までに死刑が行われなければ、日曜日に死刑が行われることがわかってしまうからだ。
すると土曜日に死刑を執行することもできない。金曜日までに死刑が行われなければ、土曜日に死刑が行われることがわかってしまうからだ。
金曜日に死刑を執行することもできない。木曜日までに死刑が行われなければ、金曜日に死刑が行われることがわかってしまうからだ。
以下同様にして、月曜日から日曜日までのどの日にも死刑を執行することはできない。
そう考えて死刑囚が安心していると、水曜日か木曜日の朝になって看守がやって来て、こう言った「お前の死刑は今日、執行される」
死刑囚「そんなバカな! 俺の死刑は執行できないはずだ! 理由はかくかくしかじか…」
看守「それではお前は、死刑が今日執行されるとわかっていたのか?」
死刑囚「いいや…」
かくして死刑囚は哀れ刑場の露と消えたのであった…
   *       *       *
このパズルは、死刑執行が告知されたのが最終日である日曜日の朝だと考えると、構造がはっきりするのではないか。
   *       *       *
看守「お前の死刑は今日、執行される」
死刑囚「そんなバカな! 昨日の土曜日に死刑が告げられなかった時点で、死刑が執行されるのは今日しかないとわかっていたんだぞ!」
看守「ということは、お前は死刑が今日執行されるとは思っていなかったんだな?」
死刑囚「そうだ」
看守「ならばお前は、死刑が今日執行されるとわからなかったということではないか!」
死刑囚「…」
   *       *       *
「『死刑が執行される』と思う」ならば「死刑が執行されない」と「『死刑が執行されない』と思う」ならば「死刑が執行される」という命題のペアが成立しているというわけだ。
なお「死刑囚のパラドックス」については、学者の手による解説が何冊か出版されてるので、正確を期したい方はそちらを参照ください。
例えば高橋昌一郎『ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)』P78以降には「ぬきうちテストのアナロジー」として同型の問題が論じられています。
林晋編『パラドックス!』P166以降に収録されている「高橋昌一郎 ぬきうちテストのアナロジー」は、講談社現代新書とほぼ同じ文章のようです。
野崎昭弘『詭弁論理学 (中公新書 448)』P177以降の「死刑囚のパラドックス」は、やや異なるアプローチからこの問題を論じています。
追記:
「死刑囚のパラドックス」に関しては続きを書いた。
www.watto.nagoya

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