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しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを要求しない

『にぎやかな食卓』を読んだら詩人のことばのセンスに驚愕した

読書

はてなブログtigeraceの不安倶楽部」の id:tigerace1943 さんの新著が出たので読んでみた。
例によって結論を先に書く。詩人と呼ばれる人のことばの選び方には、常人の考えの及びもつかぬものがあるらしいと感じた。そしてそれを言語で説明するのは、今の私には不可能、というのが今回のエントリーの結論。これまでのエントリーと同様、間違ってるかも知れない。

にぎやかな食卓 清?進一詩集

にぎやかな食卓 清?進一詩集

平易なことばで綴られた口語自由詩の短詩集である。
日本語の現代詩は縛りが少ない。英詩にはリズム(強弱)とライム(押韻)が不可欠であり、漢詩には字数、句数と平仄に厳しいルールがある。もちろん日本にも俳句や短歌など定型詩はあるが、口語自由詩にはそういった縛りがない。しかし、だからと言って詩人が自らに課すルールがないわけではなく、むしろそれは定型詩を書くときよりも自らに厳しく課されるものらしい。
そのことを説明するために、本書から一篇だけ引用をお許しいただきたい。8ページより「てのひらのいのち」と題された詩である。

 てのひらのいのち
 
鳥かごから出るのに
十分かかる
指に乗るまで
五分かかる
 
警戒心が強く
臆病なのは
飼い主のぼくと
そっくりだ
 
友達のいないぼくは
文鳥
政治経済を
語って聞かせるが
文鳥
首を
かしげている
 
なんて
いとしい
てのひらの
いのちよ

あえて極力、平易なことばだけを使って、情景をわかりやすく描き出している。ことばが易しいことと、内容が明快であいまいなところがないことが、本詩集の二大特徴である。
で、なんでこの詩を取り出したかと言うと、珍しく例外的に「政治経済」という部分に破調を感じたからだ。どの詩も本当に、あえて普通のことば、日常のことばを厳選して用いているように見受けられた。そのためかえってこの「政治経済」という、さして難しくない単語にすら、やや場にそぐわぬ違和感を覚えるほどだったのだ。
しかし戯れに「『政治』に『まつりごと』とルビを振り、『経済』に『よすぎ』とルビを振って『政治まつりごと経済よすぎ』と置き換えてみたらどうだろう?」などと考えてみると、即座に自分のやっていることが改悪以外の何物でもないと気づき、内心赤面せざるを得なかった。かえってめちゃめちゃ不自然だ。
ことばには仲間がある。人間関係のように、遠い近いがある。
それを説明するために、あえて極端な例を出してみたい。かつて某掲示板の「俳優と役者の違いは何か?」というお題に応じて「俳優の練習は演劇の準備、役者の稽古は芝居の支度」というのを投稿したことがある。種明かしをすると前者は漢語系の単語ばかりであり、後者は漢字が割り当てられているが和語系ばかりということだ。
少し難易度を上げると、太宰治人間失格』には、作中人物が単語を「悲劇語」と「喜劇語」に分けるシーンがある。青空文庫より、当該部を引用。

 自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。
「いいかい? 煙草は?」
 と自分が問います。
「トラ。(悲劇トラジディの略)」
 と堀木が言下に答えます。
「薬は?」
「粉薬かい? 丸薬かい?」
「注射」
「トラ」
「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」
「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」
「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇コメディの略)なんだぜ。死は?」
「コメ。牧師も和尚おしょうも然りじゃね」
「大出来。そうして、生はトラだなあ」
「ちがう。それも、コメ」
「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は? よもや、コメとは言えませんでしょう?」
「トラ、トラ。大悲劇名詞!」
「なんだ、大トラは君のほうだぜ」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/301_14912.html
100%は同意できないにせよ、6〜7割は「大体そんな感じだよなぁ」とわかってしまいませんか? だけど、なんでそうなのかは、説明不可能である。
なんでそんなことにこだわるかというと、「ことばの美」というものの秘密のひとつが、そのあたりに隠されているような気がして仕方がないからだ。
近いことばを厳選して使用するというルールにより、美を生み出すことができるのではないだろうか?
もう一つ別の例を挙げる。浄土真宗の信徒の家で読誦される正信偈という経典がある。実は、意味が分かるとそれ自体とてつもなく美しいものなのだ。
残念ながらあまり知られているとは言えないが、これを仏教学者の石田瑞麿が文語定型詩に訳している。これもまた、こよなく美しい。
全文を引用することはできないので、ごく一部のみ。まずは原文。

如来所以興出世にょらいしょいこうしゅっせ  唯説弥陀本願海ゆいせみだほんがんかい
五濁悪時群生海ごじょくあくじぐんじょうかい  応信如来如実言おうしんにょらいにょじつごん
能発一念喜愛心のうほいちねんきあいしん  不断煩悩得涅槃ふだんぼんのうとくねはん
凡聖逆謗斉回入ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう  如衆水入海一味にょしゅうしにゅうかいいちみ

続いて石田訳。

教主世尊は  弥陀仏の
誓い説かんと  れたもう
濁りの世にし  まどうもの
教えのまこと  信ずべし
 
信心ひとたび  おこりなば
煩悩なやみを断たで  涅槃さとりあり
水のうしおと  なるがごと
凡愚とひじり  一味なり

歎異抄・教行信証〈1〉 (中公クラシックス) P148〜149
ただし、内容的に仕方のないこととはいえ和語ですべてを統一することはできず「教主世尊」「弥陀仏」「信心」など漢語を交えざるを得ないところが、いかにも惜しく感じる。
とはいえ神道祝詞のような、やまとことばオンリーの世界となると、今度は理解できないというジレンマに直面するのだが。
ことばの美しさとは何かを説明しようという試みは、吉本隆明とか橋本治とか、おびただしい人が行っている。しかし美しさを説明しようとしたとたん、その美しさ自体が蜃気楼のように消え去ってしまうことも常態である。
どうしたらいいもんかねこれ?