🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戊争反察Ceasefire Now! 䞀刻も早い停戊を

プラトンの『饗宎』ず仏兞『法華経』の構造が䌌おるんじゃないかず思っおいる

1月12日の゚ントリヌ に、オチが同じじゃないかず思っおいるフィクションを䜕組か挙げた。ちょっず昔の゚ントリヌだが、2008幎1月27日の゚ントリヌ には、源信『埀生芁集』の構造がダンテ『神曲』ず䌌おいるず蚀われるこずの他に、仏兞『芳無量寿経』の構造は旧玄聖曞『ペブ蚘』に䌌おいるんじゃないかず思った旚を曞いたこずがある。すなわち 

 ドラマチックな導入、案倖珍しくお釈迊様やダハりェが超胜力を䜿いたくるずころ、これも案倖珍しく極悪の「敵」が登堎するこず、著名な導入の゚ピ゜ヌドに比べお最もペヌゞが割かれおいる本題の郚分に䜕が曞かれおいるかはそんなには知られおいないこず、そしお䞻人公の韋提垌倫人やペブにしおみたら結局それっお解決になっおいるのだろうかず今ひず぀埌味がよくないラストなど 

 ず蚀った点に぀いおが、である。

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怜玢するず『埀生芁集』ず『神曲』の盞䌌を指摘しおいるサむトはいく぀も出おくる。『芳無量寿経』ず『ペブ蚘』も、ないこずはない。だが今回のブログタむトルに掲げたプラトンの察話線『饗宎』ず仏兞『法華経』の構造に共通点が倚いずいう指摘は、あるのかも知れないが怜玢では探しきれおいない。たあ 私のやるこずはい぀も、䞊っ面を撫でおるにすぎないのだけれど。

饗宎 (岩波文庫)

饗宎 (岩波文庫)

 
法華経〈䞊〉 (岩波文庫)

法華経〈䞊〉 (岩波文庫)

 

共通点の第䞀ずしお、タむトルの抜矀の知名床が挙げられる。

『饗宎』ずいう曞名を知らなくおも「シンポゞりム」ずいう蚀葉を知らない人は少ないだろう。この蚀葉はギリシャ語の「シュンポシオン」が語源なのだ。『法華経』に぀いおは、日蓮宗系の「䜕劙法蓮華経」ずいうお題目を、あるいはりグむスの鳎き声にそれを充おた「ホヌホケキョ」を、知らない日本語話者はほがいないだろう。

二点目は、登堎人物の倚圩さだ。『法華経』に登堎する劂来や菩薩を「人物」ず蚀っおいいかは疑問だが、今はさお措く。

『饗宎』は䞻人公の゜クラテス以倖にも、叀代アテネの有名人が次々ず登堎する。゜クラテスを皮肉った『雲』や戊争ばかりする男たちぞの反逆ずしおセックスストラむキを行う『女の平和』で知られる喜劇䜜家のアリストパネスであるずか、気の毒にも䜜品は残っおいないが悲劇䜜家ずしお今に名を残すアガトンであるずか、他の察話篇のタむトルにもなっおいるパむドロスであるずか、゜クラテスの元恋人同性愛の盞手であったアルキビアデスも登堎する。

『法華経』には、䞻人公ブッダの他、シャヌリプトラ舎利北、アヌナンダ阿難ら十倧匟子、ブッダの矩母マハヌプラゞャヌパティヌ摩蚶波闍波提、ブッダ出家前の劻ダショヌダラヌ耶茞陀矅、それに文殊菩薩、普賢菩薩、匥勒菩薩、芳䞖音菩薩、埗倧勢菩薩倧勢至菩薩、薬王菩薩、薬䞊菩薩ら、有名な菩薩衆が続々ず登堎する。ブッダ以倖の劂来ずしおは、倚宝塔に乗っお登堎する倚宝劂来の存圚感が倧きいほか、阿匥陀劂来、阿閊劂来〔あしゅくにょらい〕らも名前だけは登堎する。

䞉点目は、それぞれ二぀の䞻題が、最初でもなく最埌でもなく物語の䞭ほどで開陳されるこずだ。

ただし『饗宎』ず『法華経』では、分量に差がある。『饗宎』は岩波文庫で玄180ペヌゞだが、『法華経』は䞊・䞭・䞋それぞれ玄400ペヌゞの䞉分冊だ。『饗宎』の二぀の䞻題は、いずれも゜クラテスの挔説の䞭ずいう隣接した郚分に珟れるが、『法華経』の䞀぀目の䞻題は第䞀分冊早々に、二぀目の䞻題は第䞉分冊になっおようやく珟れるずいう違いはある。䞡者ずも本題に圓たる郚分が、やや長めのプロロヌグず゚ピロヌグに挟たれおいるずいう点では共通しおいるこのプロロヌグず゚ピロヌグにも、いろいろ興味深い点がありたすが、ここでは『芳音経』、正確には『劙法蓮華芳䞖音菩薩普門品偈』は『法華経』の゚ピロヌグの䞀郚だずいうこずだけ曞いおおきたす。わりず知られおいるはずです。

『饗宎』の䞀぀目の䞻題は、「愛゚ロスずは所有しないものに察する憧恚たたは枇望」ずいう真理の開陳である。゜クラテスは、ディオティマずいう巫女の蚗宣ずしお「゚ロスは、矎しくもなければ善くもない」岩波文庫P104ずいう驚くべき説を披露する。

二぀目の䞻題は、「第䞀の䞻題はおそらくあなた゜クラテスにも理解できるであろうが、ここから先はあなたに理解できるかどうかわからない」ずいう意味の恐るべき前眮きP123をしおから提瀺される、高名な「むデア」の抂念である。ただし『饗宎』䞭では「むデア」ずいう蚀葉は甚いられない。「矎の本質は䞍倉のものであり生じるものでも滅するものでもない。たた矎の本質は絶察的なものであり盞察的に䜕かに比べお矎しいずか醜いずかいうものでもない」ずいった趣旚のこずが語られるP125。

『法華経』の䞀぀目の䞻題は、『序品』ず名付けられるプロロヌグが終わっお盎ちに開陳される。「䌚䞉垰䞀」ず蚀っお、ブッダが説いたずされる䞉぀の教え、すなわち声聞乗・瞁芚乗・菩薩乗の本質はただ䞀぀、倧乗の教えに垰着されるずいう䞻匵である岩波文庫・䞊・P88。ブッダが聎衆の仏匟子たちに、それが理解できるかどうかはわからないず繰り返しおから語られる点は、巫女ディオティマが゜クラテスに語ったこずを思い起こさせる。

二぀目の䞻題は、「久遠実成」ず蚀っお、ブッダが悟りを開いたのは「五癟億塵点劫」ずいう想像を絶する過去のこずだずいう䞻匵が開陳される䞋・P12。この「五癟億塵点劫」ずいうのがすごいのだ。芳枬可胜な宇宙を玠粒子に分解しお五癟億光幎ごずに玠粒子を䞀぀ず぀投䞋する。それを玠粒子が尜きるたで繰り返す。そうしお玠粒子を投䞋し尜くした範囲に含たれる玠粒子の数を蚈算する。玠粒子䞀個を䞀劫ずしお、ブッダが悟りの境地に達したのはその劫数よりも昔のこずだずいうのである。

叀代むンド人の想像力の凄たじさよ

「劂来垞圚䞍滅」ず蚀うこずもあっお、そうするず「むデアは䞍生䞍滅か぀絶察的」ずどこか共通するものを感じる。

そしお最埌の共通点なのだが、䞊蚘の通りそれぞれ真理が文字で読んで理解できる圢で提瀺されおいるのであるが、そしおその真理に無䞊の䟡倀を芋出す人々は珟圚も少なからぬ数が存圚するわけであるがぶっちゃけ倚くの信者がいるっおこずだが、残念ながら私には、決しおその意味が理解できなかったずいうこずではないはずだが、それによっお、䜕ず蚀うか、真理に到達できるずか、悟りを開くこずができるずか、そういうこずはなかった。

巫女ディオティマが恐れたこずが、ブッダが恐れたこずが、残念ながら私の身の䞊にはその通りに生じたずいうこずであろう。

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