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しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを要求しない

プラトンの『饗宴』と仏典『法華経』の構造が似てるんじゃないかと思っている

読書 宗教 収集癖

1月12日のエントリーに、オチが同じじゃないかと思っているフィクションを何組か挙げた。ちょっと昔のエントリーだが、「石上善應『往生要集 地獄のすがた・念仏の系譜』(NHKライブラリー)」には、『往生要集』の構造がダンテ『神曲』と似ていると言われることの他に、仏典『観無量寿経』の構造は旧約聖書ヨブ記』に似ているんじゃないかと思った旨を書いたことがある。すなわち…

 ドラマチックな導入、案外珍しくお釈迦様やヤハウェが超能力を使いまくるところ、これも案外珍しく極悪の「敵」が登場すること、著名な導入のエピソードに比べて最もページが割かれている本題の部分に何が書かれているかはそんなには知られていないこと、そして主人公の韋提希夫人やヨブにしてみたら結局それって解決になっているのだろうかと今ひとつ後味がよくないラストなど…

 と言った点についてが、である。

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 検索すると『往生要集』と『神曲』の相似を指摘しているサイトはいくつも出てくる。『観無量寿経』と『ヨブ記』も、ないことはない。だが今回のブログタイトルに掲げたプラトンの対話編『饗宴』と仏典『法華経』の構造に共通点が多いという指摘は、あるのかも知れないが検索では探しきれていない。まあ 私のやることはいつも、上っ面を撫でてるにすぎないのだけれど。

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

 

法華経〈上〉 (岩波文庫)

法華経〈上〉 (岩波文庫)

 

共通点の第一として、タイトルの抜群の知名度が挙げられる。

『饗宴』という書名を知らなくても「シンポジウム」という言葉を知らない人は少ないだろう。この言葉はギリシャ語の「シュンポシオン」が語源なのだ。『法華経』については、日蓮宗系の「何妙法蓮華経」というお題目を、あるいはウグイスの鳴き声にそれを充てた「ホーホケキョ」を、知らない日本語話者はほぼいないだろう。

二点目は、登場人物の多彩さだ。『法華経』に登場する如来や菩薩を「人物」と言っていいかは疑問だが、今はさて措く。

『饗宴』は主人公のソクラテス以外にも、古代アテネの有名人が次々と登場する。ソクラテスを皮肉った『雲』や戦争ばかりする男たちへの反逆としてセックスストライキを行う『女の平和』で知られる喜劇作家のアリストパネスであるとか、気の毒にも作品は残っていないが悲劇作家として今に名を残すアガトンであるとか、他の対話篇のタイトルにもなっているパイドロスであるとか、ソクラテスの元恋人(同性愛の相手)であったアルキビアデスも登場する。

法華経』には、主人公ブッダの他、シャーリプトラ(舎利弗)、アーナンダ(阿難)ら十大弟子、ブッダの義母マハー=プラジャーパティー(摩訶波闍波提)、ブッダ出家前の妻ヤショーダラー(耶輸陀羅)、それに文殊菩薩普賢菩薩弥勒菩薩、観世音菩薩、得大勢菩薩(大勢至菩薩)、薬王菩薩、薬上菩薩ら、有名な菩薩衆が続々と登場する。ブッダ以外の如来としては、多宝塔に乗って登場する多宝如来の存在感が大きいほか、阿弥陀如来、阿閦如来〔あしゅくにょらい〕らも名前だけは登場する。

三点目は、それぞれ二つの主題が、最初でもなく最後でもなく物語の中ほどで開陳されることだ。

ただし『饗宴』と『法華経』では、分量に差がある。『饗宴』は岩波文庫で約180ページだが、『法華経』は上・中・下それぞれ約400ページの三分冊だ。『饗宴』の二つの主題は、いずれもソクラテスの演説の中という隣接した部分に現れるが、『法華経』の一つ目の主題は第一分冊早々に、二つ目の主題は第三分冊になってようやく現れるという違いはある。両者とも本題に当たる部分が、やや長めのプロローグとエピローグに挟まれているという点では共通している(このプロローグとエピローグにも、いろいろ興味深い点がありますが、ここでは『観音経』、正確には『妙法蓮華観世音菩薩普門品偈』は『法華経』のエピローグの一部だということだけ書いておきます。わりと知られているはずです)。

『饗宴』の一つ目の主題は、「愛(エロス)とは所有しないものに対する憧恨または渇望」という真理の開陳である。ソクラテスは、ディオティマという巫女の託宣として「エロスは、美しくもなければ善くもない」(岩波文庫P104~)という驚くべき説を披露する。

二つ目の主題は、「第一の主題はおそらくあなた(ソクラテス)にも理解できるであろうが、ここから先はあなたに理解できるかどうかわからない」という意味の恐るべき前置き(P123)をしてから提示される、高名な「イデア」の概念である。ただし『饗宴』中では「イデア」という言葉は用いられない。「美の本質は不変のものであり生じるものでも滅するものでもない。また美の本質は絶対的なものであり相対的に何かに比べて美しいとか醜いとかいうものでもない」といった趣旨のことが語られる(P125~)。

法華経』の一つ目の主題は、『序品』と名付けられるプロローグが終わって直ちに開陳される。「会三帰一」と言って、ブッダが説いたとされる三つの教え、すなわち声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の本質はただ一つ、大乗の教えに帰着されるという主張である(岩波文庫・上・P88~)。ブッダが聴衆の仏弟子たちに、それが理解できるかどうかはわからないと繰り返してから語られる点は、巫女ディオティマがソクラテスに語ったことを思い起こさせる。

二つ目の主題は、「久遠実成」と言って、ブッダが悟りを開いたのは「五百億塵点劫」という想像を絶する過去のことだという主張が開陳される(下・P12~)。この「五百億塵点劫」というのがすごいのだ。観測可能な宇宙を素粒子に分解して五百億光年ごとに素粒子を一つずつ投下する。それを素粒子が尽きるまで繰り返す。そうして素粒子を投下し尽くした範囲に含まれる素粒子の数を計算する。素粒子一個を一劫として、ブッダが悟りの境地に達したのはその劫数よりも昔のことだというのである。

古代インド人の想像力の凄まじさよ!

如来常在不滅」と言うこともあって、そうすると「イデアは不生不滅かつ絶対的」とどこか共通するものを感じる。

そして最後の共通点なのだが、上記の通りそれぞれ真理が文字で読んで理解できる形で提示されているのであるが、そしてその真理に無上の価値を見出す人々は現在も少なからぬ数が存在するわけであるが(ぶっちゃけ多くの信者がいるってことだが)、残念ながら私には、決してその意味が理解できなかったということではないはずだが、それによって、何と言うか、真理に到達できるとか、悟りを開くことができるとか、そういうことはなかった。

巫女ディオティマが恐れたことが、ブッダが恐れたことが、残念ながら私の身の上にはその通りに生じたということであろう。