しいたげられたしいたけ

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「完全なる神と不完全な人間」という二分法が、我々の心を楽にしてくれることがあるんじゃないかと思った

あんまりまとまってないです。「お前のエントリーできちんとまとまったものがあるのか?」という突っ込みは黙殺する。

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「人間は二分法により世界を認識する」という考えは、一般にもわりと広まっているように思う。私の以前のエントリー「もし同性愛を「キモい」と感じるとしたら、最大の理由はおそらく自分自身の中にある同性愛的傾向を嫌悪しているからだと思う」でも使わせてもらった。元は言語学者が言い出したことなんだそうだ。「雨」という言葉は、「空から降ってくる水」というより、そもそも「雨」と「雨以外のあらゆるもの」を二分するためのもの、区別するためのものなのだそうだ。「なにそれ?」と思われるかも知れないが、その二分の仕方が言語により文化により異なるというのが、ソシュール以来の近代言語学の一大発見なのだそうだ。ぶっちゃけ日本語の「雨」と、英語の「rain」と、他の言語で雨に相当する言葉が、同じ分け方をしているとは限らない、むしろ違って当たり前、ということなんだそうだ。

 この二分法という考え方は、他の様々な学問の分野にも応用され成果を挙げている。松尾匡先生の「用語解説:右翼と左翼」がホッテントリになったのは、もう8年も前のことになる。このエントリーの何年か後に出た松尾先生の『新しい左翼入門』も読んでみた。徹頭徹尾二分法を活用した分析は明快でインパクト強かった。名著です!  その一方で、「人間は二分法を用いた理解から逃れることはできないのか?」という重苦しさのようなものも感じた。

新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)

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 長いけどここまでが前置き。こんな増田(匿名ダイアリー)がある。匿名で実在の「はてなユーザ」に言及している増田なので、取り上げるのに躊躇を感じないでもないが、いたしかたない。関係者の方にはなにとぞご容赦願います。

http://anond.hatelabo.jp/20151025024731

いい加減なことを書きついでに、思いつきのもっといい加減なことを書きたい。昔、松尾匡先生が「右翼と左翼」に書いた誤解の構造は、「右翼とクリスチャン」に変えても成り立つんじゃないだろうか?
松尾先生の記事を乱暴にまとめてしまうと、右翼は世の中をウチとソトに分けて考え、自分はウチの味方、左翼はソトの味方をしていると考える。左翼は上と下に分け、自分は下の味方、右翼は上の味方をしていると考えるから、相手の考えを理解できないし議論もかみ合わない、というものだ。
先に挙げた記事では、右翼はクリスチャンが左翼と同様ソトの味方をしてると考えて問題視している。
でもクリスチャンは全然そんなふうに考えていない。クリスチャンは神と人間という考え方をし、不完全な人間がいかに完全なる神と向き合うかだけを問題にするのだ。神から見たらウチもソトもあるはずないじゃないか!

言及された「はてなー」さんがトラックバックでこの部分に賛同を示していたので、この論旨には間違いはないんだろうなと思った。ちなみにこの「はてなー」さんというのは id:kash06 さんのことで、何人もいる常々私が尊敬を感じる「はてなユーザ」のお一人である。トラックバックの「はてダ」には、こんなブコメをつけさせてもらった。

そうです、私が変なkash06です - カッコつけるのは、もうヤメだ。ダラダラと生存報告。(仮)

“不完全な人間がいかに完全なる神と向き合うか” ちなみに日本仏教界では清沢満之という人が「阿弥陀如来と人間」としてずっとこの問題に取り組んだとのことで、勉強しなきゃと思いつつまだ手をつけてない。反省。

2015/10/26 10:54

b.hatena.ne.jp

 清沢満之はあれからまだ一冊も読んでいません。すんません。つか開き直るようだけど、これこそが今回のエントリーの主題なんです。人間というのはどこまで行っても不完全なもので、仮に勉強が足りていなければ発言できないということであれば、永遠に一言も発言することはできない。つか勉強してない私が言うのもおこがましいけど、勉強すればするほど、自分の勉強が全然足りていないことが、より深く自覚されるものなのだ。そもそも勉強を完成させることって、可能なんだろうか。たぶん不可能だろう。

ただし、指摘や批判をもらうことは覚悟しなきゃなんない。でもそれも、指摘も批判も免れないものだと思えば、素直に受け入れることも可能になる。

なんか当たり前すぎることばかり書いているな。

ここんとこ弊ブログでは、自分の目で見ても完成度の低いフィクションのストーリーを晒すことが多くなった。「マンガの筋に」と考えていたものが多い。しかし「発表するには、画力を飛躍的に向上させて、パソコンのツールもマスターして…」なんてやってたら、ほとんど全部を墓場まで持って行かなきゃならない。個人的な事情を書いてしまうと、このところ何年かは仕事のバランスが悪く、2~8月はそこそこ忙しいが(と言ってもせいぜい人並み)、9~1月はわりと時間の自由がきくというシフトになっている。そんなんで、ヒマな期間に未完成でも下書きでもうpしてしまえ、とやっているという次第だ。

公開する以上は、そんな奇特な人がいればですが、もし自分の創作に転用したいという人がいたらご遠慮なくという考えです。つかもし才能のある人が、私のコンセプトをまともな作品に仕上げてくれたら、この上ない光栄を感じるでしょう(才能のある人はそんなことしないか?)。

話はガラッと変わるけど、もう一つ、「完全な神と不完全な人間」という対立にスポットを当てることで、「右翼と左翼」のような不毛な対立を解消する一助にもならないかということも少し夢想した。

ちょっと考えて、ダメかな、と思った。もし宗教が人間の対立を解消するのなら、戦争は人類の歴史からとっくの昔に駆逐されてなきゃならない。

なんでそうならなかったのか、理屈を捏ねてみる。二分法の適用は一回で終わりではないのだ。むしろ二分法を繰り返し適用することにより、人間は世界を理解しているのだ。

言語学を例にとると、「空から降ってくるH2O」を「雨」と定義して終わりじゃない。H2Oが結晶化していることもある。そりゃ「雪」だ。固体化しているが結晶じゃないものもある。「雹」だ。固体と液体が混合している場合もある「霙」だ。そうすると、今度は逆に「空から降ってくるH2O」という総合概念が必要になる。あまり一般的ではないが「降水」という気象用語がある。これらの分類は言語によって違うのは当然だし、同じ言語の中でも文化によって違うのだ。「津軽には七つの雪が降る」と太宰治新沼謙治も言っている。けだし雪国では「雪」をさらに詳細に分類する必要があるのだ。

これもいざ書いてみると当たり前すぎて気が引けるのだが、同じキリスト教の中でも旧教と新教の対立があった。去年、30年戦争に関して何冊か新書を読んだので、それらをタネ本にまた何か「おめーらこんなこと知らねーだろ?」というエントリーを書いてみようかな(やなやつ>自分)。日本仏教も、歴史的に日蓮宗のとんがり具合だけが有名になっているが、実は他の宗派も似たり寄ったりなのだ。イスラム教のスンニ派とシーア派の話題は、現今の新聞紙上を賑わわせない日を探す方が難しい。

宗教内部だけの話ではない。政治についていえば…

・信仰を持っていて、かつ政治的に明確な立場を持つ人がいる。

・信仰を持っていて、かつ政治的に明確な立場を持たない人がいる。

・信仰を持っていなくて、かつ政治的に明確な立場を持つ人がいる。

・信仰を持っていなくて、かつ政治的に明確な立場を持たない人がいる。

という機械的な分類が可能だというだけで、何の解決にもならなそうですね。すいません。

でも信仰についても、政治についても、引き続きもう少し考えてみたいかな。