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しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを要求しない

わがシバキ読書法(ただし全部実行はぜってー無理

読書

きっかけは、こちらのエントリーです。

www.xn--n8jvce0l6c.com

年間1000冊か~、すごいなと思いつつ、積ん読本と「あとで読む」タグばかりが増えてゆく現状で、もし一日3冊のペースで本が読めたら多少は状況が改善するかななどと夢想した。

しかし世の中にどれだけ本があるのかと、ちょいとぐぐると、世界最大の図書館はアメリカ議会図書館、二位は大英図書館で蔵書数は諸説あるがいずれも約1億5000万冊という途方もない数字が出てくる。ただし新聞、雑誌など非書籍も含めた収蔵物全体の数字だそうだが。

まあ新聞、雑誌は私も読むから、仮にそれらも含めて一日3冊読んだとして、計算を簡単にするため100年でどれだけ読めるかというと、電卓を叩いて 3 × 365 × 100 = 109,500(冊) という数字が出てくる。

これをExcelで作ったグラフで比較すると、こうなる。

f:id:watto:20160202015309p:plain

わははははははは、何に苦労したかっつーと、グラフが直線にならないよう表示するのに一番苦労したのだ(^▽^;

要するに、どれだけ読んでも未読の本は残るのだから、本くらい自分のペースで好きなように読めばいい、読みたくなければ読まなきゃいい、ってことだけど…

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それでも今回の だいちゃん.com さんのところのように、どっかで見聞きして「ぜってー無理」と思いながら密かに努力目標と定めている読書法コレクションがあるので、今回はそれをネタにしよう。できるとは言ってない。

はてなダイアリー」の「もくじ」という機能を今回初めて使ってみる。

 一日一冊読め

そういうわかりやすい目標を設定している人は、一時的というのも含めると案外多いみたいだ。私の場合、昔やってみて、見栄も含めて一応「ジャンルを限定すれば可能」という結論に達した。すなわちラノベ、ミステリ、SFのようなエンターテイメント、それにエッセイの類ばかりであれば、いけると思った。一日二冊いけるかも知れない。しかし言い訳を承知で書くと、昔から個人的には自然科学書、理工学書、歴史書、語学書などを中心に読みたいと思っており、これらのジャンルは一日一冊読めるようなシロモノではないのだ。だから早々に断念した。

言っとくが、これらの本を読むスピードも、人に比べて早くはない。

ちなみに文芸評論家で慶大教授の福田和也氏は『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫)』にmax一日七冊と書いていた。斎藤美奈子氏によると、ロシア語同時通訳者の米原万理も一日七冊とのこと(http://hon.bunshun.jp/articles/-/3518)。上を見ればキリがないのだ。

最後まで読め

「そうしろ」と言われたわけじゃない。岐阜大学の吉田千秋教授が市民向けの講座で「この本を読まなきゃならないとなったら、何が何でも最後まで読まなきゃならない」という意味のことを語ったのが記憶に残っているのだ。講演の本題がどんなだったかは忘れてしまった。吉田先生すみません。

吉田先生は哲学専攻だが、専攻はなんであれ知識のプロフェッショナルには、そういう姿勢が要求されるのだろうなと思った。

二度読め、三度読め

これはやりたいなと思いながらなかなか実行できない。完全ならざる人間には、どうしても読み落としや誤読が避けられない。一度しか読まないと、それらを発見するチャンスが永遠に巡ってこないのだ。欧米に「いやしくも一度読むに値する本は二度読むに値する」という言葉があったと思うが、誰のどんなシチュエーションでの言葉かまでは覚えていない。

もし可能であればだが だいちゃん.com さんが書いている三度読みもやりたいものだ。誰だったか新聞の書評を書いてる人は、あの短い記事を書くために三度読みをやっていると言っていたような記憶がある。

数式のある本を読め

これは京都大学の引原隆士教授から聞いた言葉。講談社ブルーバックスを批判する文脈で出てきたんだったと思う。引原先生は工学部の人だから、当たり前っちゃ当たり前かも知れない。つか今は少し事情が違うけど、ブルーバックスに限らず一般向け書籍には数式を一切出しちゃいけないとでも言うようなヘンな習慣があったのだ。

たった一行の数式を表すために半ページを説明に費やしている新書を読んだ記憶もある ⇒ http://watto.hatenablog.com/entry/20081123/p1

なんでも一般向け書籍は数式が一つ出てくるたびに読者の数が半分に減るという伝説が、出版業界にはあったんだそうだ。真偽のほどは知らない。「それは間違いだよ」という意思表示するためにも、数式のある本を手に取るべきかなとは思う。

英語の本を読め

これもいろんな人が言っていることだけど、私的なことを言うと新卒で入社した会社で、トップに近い偉い人からガツンと言われたことが印象に残っている。最初「偉い人なのにフレンドリーだな」という印象を抱いていたが、甘かったという意味で。

ここに繰り返すまでもないが、英語と日本語では、情報量もスピードも比較にならない。

ウミガメのスープ」スレに入り浸っていた頃、ネタを仕入れるために Paul Sloane と Des MacHale の原書を何冊も読んだことがある。あれは本当にあっさり読めてしまうのだ。しかしそれで自信をつけて、洋書が読めるようになったと勘違いして、他の洋書に手を出したら、あっさり返り討ちに合った。ぜんぜん歯が立たなかったのだ。

ただしそれ以後も幻想を捨ててノロノロとチャレンジしています。 

Challenging Lateral Thinking Puzzles

Challenging Lateral Thinking Puzzles

 
Lateral Thinking Puzzlers

Lateral Thinking Puzzlers

 

古典を読め

これもまたいろんな人が言っている。夭折の大天才数学者ガロアが、そのあまりにも早すぎる晩年、なぜあなたはそんなに若くしてこれだけの偉業を成し遂げられたのかと尋ねられて、「教科書や解説書には目もくれず、大数学者たちの書いたオリジナルの論文を直接読んだからだ」という意味のことを答えたというエピソードがある。

ショウペンハウエルは『読書について』に、やはり「古典を読め」と繰り返し書いている。 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

ショウペンハウエルは当時の流行作家の実名をいくつも挙げ、「彼らの書いた作品は一世紀もすれば一冊も残っていないだろう」とおごそかに予言したのである。その予言は的中した。

ただし古典に書いてあることが全て正しいなんていうつもりは全然ない。念のため。ちょうど今『孫子』を読んでいるが、旧日本軍の悪名高き大愚策「敵に糧を求める」の出典はこれだったのだ(作戰編二「智将は務めて敵に食む」)。少なくとも最近の一、二世紀において世界最強を誇る米軍と、それ以前の何世紀かの間世界に覇を唱えた英軍は、鉄壁の補給網構築を根本戦略の一つとした。

読みながらノートを取れ、メモを取れ

小松左京やぶれかぶれ青春記 (旺文社文庫 66-1)』収録のエッセイ「わが読書歴」に、フッサールの『純粋現象学』をノートを取りながら読んで、そのノートが大学ノート三冊分になったと書いていた(P181)。それを読んで「へぇ、こういう本の読み方もあるんだ」と思った。難解な専門書を読むときノートを取るというのは、これも知識のプロフェッショナルは当たり前のようにやることらしい。ただしどのようなノートを取るのかは、皆目見当がつかない。

そこまでいかなくても、ヴァン・ダイン高木彬光の本格推理物で、事件解決直前に作者が謎リストを自らまとめて示すことがあった。読者への挑戦状ということだろう。そんなものを他のミステリを読むときに自分で作ったことがあった。あれでよかったかも知れない。

それどころか、自分のブログに短い書評を残しておくだけでも、あとで検索できるから便利な思いをしたことが何度もある。わかっていながらしばらくやっていない。この機会に反省しよう。

本を読んだからといって本が書けるとは思うな

読むことと書くことは別の才能だと思っている。司馬遼太郎が『史記』をろくに読まずに『項羽と劉邦』を書いただろってことは弊ブログでは何度もネタにさせてもらった。他にも、宗教学者島田裕巳氏は日本で最大の門徒数を誇る浄土系諸宗の根本経典『観無量寿経』を読んでないのか?(http://watto.hatenablog.com/entry/20111230/p1)とか、岡田斗司夫氏の日本史に関する知識が突っ込みどころだらけ(http://watto.hatenablog.com/entry/20070617/p1)とかも、ブログのネタにさせてもらったことがある。今回のエントリーでは「知識のプロフェッショナル」という言葉を何度か使ったが、プロフェッショナルとは言ってもしょせん人間、完璧ということはありえないのだ。あるいは上掲のグラフを見てもらえば、よしんば自分の専門分野であったとしても文献をあまねく網羅し読破することは至難の業ということが納得してもらえるんじゃないかと思う。

一方で、知識をメシのタネにするという技は、誰にでもできるわけじゃない。物語にしろ評論にしろ、風呂敷をいったん広げて畳むには、常人の思いも及ばぬエネルギーが必要なのだ。そういう能力を獲得するのは、読書だけでは不足で、何か別のトレーニングが必要になるんじゃないかとは思っている。

持って生まれたものというのがあるのかも知れない。そういう時いつも思い浮かぶのが、手塚治虫の『ブラックジャック』執筆時のエピソードである。『ブラックジャック』は「週刊少年チャンピオン」に一話完結で連載されたマンガである。手塚治虫は、毎週、秋田書店の担当者に、次の回の構想を三話分くらい用意して話して聞かせ、その中から一番面白そうなものを担当者に一つ選ばせたんだそうだ。つまり『ブラックジャック』には日の目を見ずボツった話が、読者の目に触れた話の二倍あるということになる。

化け物だよね。いや「神様」なのか。司馬のような人たちも、おそらく歴史上の人物名とエピソードのいくつかを摂取すれば、頭の中でそれらの人物がひとりでに顔と性格を獲得して生き生きと動き回るタイプだったのだろう。ただし彼らの頭の中にある人物と歴史の実像が一致しているかは、保証の限りでないというだけで。

読書の報酬は読書

サラリーマン時代の上司が、そのまた上司から「仕事の報酬は仕事だ!」と教わった、という話を聞かされたことがある。ややこしいけど私が直接言われたんじゃありません。上司が上司からそう言われたと間接的に聞かされたんです。仕事をやりとげた人間だけが次の仕事も任される、という意味だそうだ。
その時は正直言って「たまんねーな(-_-;」と思ったものだが、それもまたやはり一面真実を言い表した言葉だとも思った。読書に関しても、そういう側面があると思う。基礎となる知識がないと、面白く感じられないことはいくらでもある。逆に、知識の蓄積ができたことで、昔は面白さがわからなかったことが、たまらなく面白くなるということもまた、いくらでもあるのだ。

なんだかだんだん仏教の「四弘誓願」

衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成 

か、ミュージカル『ラ・マンチャの男』の「見果てぬ夢」

To dream the impossible dream (叶うことなき夢を夢見)
To fight the unbeatable foe(討ち勝ち難き敵を討ち)
To bear with unbearable sorrow (耐え難き悲しみに耐え)
To run where the brave dare not go (勇者も避ける道を行く)  

みたいになってきたが、なんのなんの、たかが読書ではないか。読書は読書自体の楽しみのために行うのが本来の目的であって、それができなきゃ本など読まなくても支障はないのだ。