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しいたげられたしいたけ

人権を守るには人権を守るしかない。人権以外の何かを守ることによって人権を守ろうとする試みは経験的に全て失敗している

子どもの頃のわけのわからない悩みが鮮やかに解決した数少ない例について

むしろ、かつての2ちゃんねる家庭板の長寿スレ「子どもの頃信じていたバカなこと」的なネタかも知れない。

やざかな(id:yazakana)さんの、このエントリーに乗っからせてもらいます。

www.yazakana.com

こんなブコメを投入させてもらった。これに関連して、もう少し語りたい思い出話があるのだ。

【1歳8ヶ月】遺伝子の恐ろしさよ…!【似ないでほしいところが似る】 - にこ部!-振り回され母ちゃんの育児絵日記-

コンプレックスに関連するデリケートな話題であるとは思うが、一般的に言って、自ら極太漆黒の剛毛フサフサの男性の目から見たら、女性や子どもの体毛などまず誰も気にしていないという事実だけは指摘しておきたい。

2016/07/29 11:24

b.hatena.ne.jp

この際ついでに書いておこう。一つ前のエントリーには、たくさんのブックマークコメントをいただき感謝しています。ありがとうございます。ブコメの中に結城先生の元記事とかみ合っていないという指摘がいくつもあったが、これは確信犯的にやっていることであって、弊ブログのエントリーは他の方の記事を勝手にマクラに引用させてもらいつつ自分の言いたいことを書くというパターンが多いのだ。しかし、弊ブログを継続的に読んでいただいている方より、いろんな経路で流入して単独のエントリーを読んでいただく方の方が当然多いのだから、断っておくべきことは毎回断っておくべきだったと、ちょっと反省。

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いつもながら、あらずもがなの前置きが長いな。私が子どもの頃に思い込んでいたバカなことというのは、こんなことだ。

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human-evolution-silhouettes | Image by VectorOpenStock.com

子ども向けの科学書や学習雑誌によく載っている、人類進化図である。私は幼い頃、これがたまらなく怖かった。なんでかというと、自分はそのうち、必ずこの進化図の逆をたどってサルに退化するに違いないと思い込んでいたのだ。

小学館の『小学三年生』に掲載されていた学習マンガに拒絶反応を起こして、進化図が載っているページを開けなくなった記憶がある。

なんでそんなことを考えるようになったかは、憶えていない。事態はなんでもだいたい自分に都合の悪い方に進むという信念つか信仰は、ほぼ物心ついた頃から備わっていたのだ。

「たま」の、この名曲がヒットしたのは、それから十何年か後のことである。もし時期がずれて重なっていたら、この曲を聴いて恐怖のあまり死ぬか発狂するかしていたかも知れない。

www.youtube.com

退化する前兆だと信じていたことが二つある。

一つは、後頭部が出っ張ってゆくという思い込みだ。子ども向け科学本に載っていた猿人や原人の化石が、そんなふうに見えたからだ。

 科学本としては、人類進化に伴って大脳の容積が増えた=頭頂部が高くなったということを強調したかったのだろうが、子どもの思い込みには通じるはずがなかった。半泣きで後頭部を柱や壁に打ちつけた記憶が何度かある。

現在、頭の形がヘンで絶壁気味なのは、その影響があるかもしれない。思い込みが外見に影響するものなら、そのくらいの熱意でイケメンになることを願っておけばよかった。

なんとなく『わたるがぴゅん!』の書影を貼ってみよう。調べてみたら、宮城君はあんまり表紙に出してもらってないんだね。

そしてもう一つが、毛深いってことだった。毛深いといっても小学校低学年の毛深さなんて知れたものだったのだけど。

そういう悩みは、他人に相談できたものではなかった。話したとしても一笑に付されただけだろう。特にうちの両親というのが、小学校に進学したときにストレスでエンピツにいっぱい噛み跡をつけたり教科書を破いたりしたときに、原因を考えるのではなく即座に子どもを叱るという反応を示すタイプだったと言えば、想像つけていただけるんじゃないだろうか。昭和中期の親の意識なんて、そんなもんだった。

あるとき、親戚の7つか8つ年長の従兄に、苦し紛れに「自分は毛深い」と打ち明けたことがあった。自分では一番毛深い箇所だと思っていた二の腕あたりの産毛を示しながら。もちろん「サルになる」なんて言えやしない。こう言うのがギリギリだったのだ。

従兄は、確か「そんなの毛深いうちに入らない」みたいなことを言って、脛をまくり上げた。第二次性徴期を迎えていた従兄の脛は、びっちりと剛毛で覆われていた。

それでもしばらくは、なんとか自分に都合の悪いことを思いつかないか考えたんじゃないかな。けっきょく思いつかなかったけど。

また、不思議なことに「自分がサルになる」と思っても「他人がサルになる」とは思わなかった。この場合、従兄がサルになることを心配しようという気は全く起こさなかった。これもヘンな話ではある。北杜夫が『どくとるマンボウ青春期』中で告白した、自分が不具に思えることはしょっちゅうでも、他人が不具に見えることはないという現象の一形態なのかも知れない。

もう一つ、ぜひとも書いておきたいことがある。

こうした、大人の目から見たら「根拠のない」「くだらない」悩みも、子どもにとっては「宇宙の果て」や「時間の始まり」あるいは「自分自身とは何か」のような、大人になっても考え続けるに値する「根源的な」「哲学的な」悩みと、全く区別するものはなかったのだ(以前『もう一人の自分自身の正体は誰か?(その4)』に書いたように、私自身は悩む子だった。そしてそういう悩みを持たない子もいるということを、後になって驚きをもって発見した)。

「根源的な問い」に対するチャレンジの成果は、数学、物理学、哲学などで人類が築き上げてきたものだけでも、はるかな高みに達する頂を持つ。今の私は、うんと麓の方からその頂を、圧倒的な讃嘆と少なからぬ嫉妬をもって見上げる立場でしかない。それでも「どんな難問にも答えがあり、その答えは自分にもいくばくかは必ず理解できる」というような楽観論もまた持ち合わせているのは、こういった経験があればこそかも知れない。