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しいたげられたしいたけ

人権を守るには人権を守るしかない。人権以外の何かを守ることによって人権を守ろうとする試みは経験的に全て失敗している

同じ条件を与えられても成功する人は一握りでしかも誰が成功するかは予想できないこと(前編)

9月16日のエントリーに、「月刊OUT」という雑誌のことをちょっと書いたが、もう少し書き足したいことがある。ちょうどこんな「はてな匿名ダイアリー」(通称 “増田”)があったので、これも踏まえて書いてみたい。

anond.hatelabo.jp

増田には具体的に何年頃のこととは書いてないが、勝手に1980年代前半を想定してみる。

増田のブックマークコメントにもあるように、当時も今も、暮らしはあんまり変わらないように思う。しかし、今あるけど当時なかったものは、きっちりなかった。影も形もなかった。パソコン、スマホ、ネット…だからこれらのものと縁のない人達は、今でも80年代と、さして変わらぬ生活をしていることになる。我が実家の老母とか。

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アニメは、故西崎義展氏のような怪物つか希代のプロデューサの手によって、すでに一大産業に仕立てられていた(西崎氏の怪物っぷりは『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』に詳しい)。家庭用ゲーム機は、まだなかった。当時のアーケードゲームは、喫茶店のテーブルの天板をガラスにしてブラウン管式テレビを埋め込んだもので、70年代のインベーダゲーム一辺倒の時代をようやく脱して多様化が始まったころだった。

ウィキペによると「ドンキーコング」がアーケードゲームに登場したのは1981年で、このゲームがマリオ初登場の舞台である。そして続編「ドンキーコングJr.」では、マリオはなんと敵役だったのだ!

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80年代と現在で何が一番違うかというと、個人的な感覚では、やはりネットの存在だろう。インターネットも、その普及前の一時期スタンダードであったパソコン通信も、研究室の中には存在したのだろうが世の中には影も形もなかった。

今からは、ネットのない世界は想像できないかもしれないが、しかし当時は、もともと存在しないものに不便を感じることはなかった。

当時在籍していた大学では、今のSNSの代わりに、サークルの控室(「ボックス」と呼んでいた)や生協のカフェテリアに、紙のノートが置かれており、誰でも書き込めるようになっていた。人気の常連書き手もいた。紙のノートへの書き込みから、「保育園落ちた、日本死ね」のような、国会でまで取り上げられるようなものが現れることはなかっただろう。しかしノートの個々の記事を書いたり読んだりしていた人数は、今のLINEやtwitterとさして変わらないんじゃないだろうか。

紙と言えば、ブログの代わりに紙の日記というものが存在した。日本人は平安時代の昔から書く人は書いていたものだ。私の紙の日記も、中学時代から書き溜めたものが20年分くらい今でも残っている。

不特定多数に向けて情報を発信したい者もまた、いつの時代もいた。そうした者はラジオの深夜放送や、雑誌の投稿欄を目指したんじゃなかろうか。「ハガキ職人」と呼ばれた存在だ。恥ずかしながら私もその一人だった。ラジオに関しては、「オールナイトニッポン」や「パックインミュージック」のような全国ネットの番組は採用率が低いので、ローカル番組で常連になることを狙った。中部地方の高校を卒業して京都の大学に進学した頃、ほぼ同時期に東海エリアでローカルながら絶大な人気を誇っていたつボイノリオ氏というDJが、KBS京都という京都のローカル局にも進出しレギュラー番組を始めた。「ハイヤング京都」という番組だ。投稿者に週1人にしかもらえない「ハイデジ」という賞品(正体はカシオ製のデジタル腕時計)を、合計2個せしめたのは今でも内心の自慢の一つである。両方とも失くしたけど。

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雑誌は、今よりもよほど存在感があった。新潮社から「FOCUS」が創刊されたのが1981年で、やがて200万部の発行部数を誇るようになった。追随する出版社が何社も現れ、80年代は第何次かの「雑誌創刊ブーム」と呼ばれたんじゃなかったかな?

部数はFOCUSとは比較にならないが、今でいうオタク層には、月刊「ファンロード」「OUT」が支持された。どちらも読者の投稿(文章・イラスト)を多く掲載していたのが特徴だ。私は短い期間ながら後者を購読していたので、後者について語る。

ファーストガンダム(放送1979~80年)には間に合わなかったが、同じサンライズ製作の「伝説巨人イデオン」(80~81年)がオンエア中の頃、購読を始めた。当時、東京大学に在学中の南田操氏というライターが「イデオンは哲学である」と論じた記事が、話題となった。

確認のため検索したところ、なんと南田氏自らが「教えて! goo」の回答者として登場した記事がヒットしたので、リンクを貼らせてもらおう。

oshiete.goo.ne.jp

南田氏は、その後ライターとして活躍されているらしい。

「OUT」には当時、花小金井氏というペンネームの早稲田大学在学中のライターもいたように記憶している。ただしこの方は、検索すると花小金井駅の情報ばかりがヒットするため、ネットでは現在の消息を調べきれないでいる。あまりぶっ飛んだペンネームをつけるのも、考えものである。

今日であれば、彼らはさしずめ「高学歴ブロガー」に相当する立場かも知れない。

学生ライターに限らず、80年代は今と比較すると、社会がよほど若かった。「OUT」に限っても、人気編集者R2氏は立命館大学を卒業したばかりだったし、ゆうきまさみ氏は北海道の高校を卒業してサラリーマンをやりながら「アニパロ」と呼ばれるマンガをせっせと寄稿していた。「ゆう坊のでたとこまかせ」という、読者投稿をDJのノリで紹介する2ページコラムを担当していたライターは、早稲田大学を卒業したばかりだったことを検索で知った。

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コンピュータの話をしておかなければならなかった。ウィキペによると、NECの初めての完成品パソコンPC-8001が発売されたのが1979年で、定価は168,000円とのことだった。完成品というのは、NECPC-8001に先立つ1976年に、組み立てキットTK-80というのを発売しているからだ。

スペックを今の目で見ると驚く。クロック4Mhz(Gではない)、メインメモリ64KB(Gどころか、Mですらない)、ハードディスクなし。フロッピーディスクですら、高価な外付けオプションを購入しないと付けることができなかった。音楽用カセットテープが主な外部記憶装置だった。

少し遅れて、廉価版のPC-6001が「パピコン」という愛称で発売された。ウィキペによると、81年発売で定価は89,800円。「月刊OUT」で「ゆう坊のでたとこまかせ」という読者投稿コーナーを担当していたライター=堀井雄二氏は、「パピコン」を使って投稿者をデータベース化していた。元々コンピュータに強い人だったのだろう。ただしデータベース化によって、投稿者や読者にどういうメリットがあったかは、よくわからない。ペンネームは8文字までという制限をおちょくった投稿や、「パピコンのバカヤロー」とだけ書かれた投稿が掲載されたことは覚えている。

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すいません、退屈でしたね。ここまでは時代背景の説明みたいなものです。ここまでを「前編」として、一旦稿を改めます。

イメージ画像どうしよう? 「月刊OUT」でAnazon商品紹介を検索して、トップに出てきた書影を貼ってみようか。

月刊OUT(アウト) 1979年10月号 (雑誌古書セット)