しいたげられたしいたけ

弊ブログでいう「知的」とは「体を動かさない」程の意味で「知能の優劣」のような含意は一切ない

神社に参拝したらやることを一つだけ増やすべきだと思った(後日談シリーズ3)

釣りっぽいブログタイトルを掲げてみた。こんなんで釣れるかは別として。さっさとネタバラしてしまうと、増やすべきことというのは、由緒書きを探して読むことだ。

今回は、こちらの記事の後日談である。

www.watto.nagoya

上掲記事には、その由緒書きを文字起こししたものを貼った。おおざっぱに要約すると「元の祭神はイザナミのおしっこから生まれた水の神様だったが、近所の神社が諏訪大神を勧請したので、対抗上、もっと強そうな鹿島の建御雷神と祭神を入れ替えた」というようなことだった。しかも驚くべきことにつか脱力すべきことにつか、現在はその諏訪神社が、ここの宮司も兼ねているという張り紙も貼ってあった。

それで諏訪神社にも行ってみたくなった。同じ市内で、しかもそんなに遠くなさそうなのに、まだお参りしたことがなかったのだ。

しかし徒歩ではちょっと遠い。実はお参りに行ったのは、4月20日の記事に書いた、スクーターに乗ってマップやナビに表示されない道を撮りに行ったのと同じ日だった。方角が同じだったので、帰りに寄ったのだが、内容的に別物なので別の記事とした。

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参道は、そんなに長くはなかったが、桜並木であった。すでに葉桜になっていた。ちょっと惜しいことをした。来シーズンは、ここにも来てみよう。

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初めに気づいたのは、いろんなものが新しかったことだ。写真からはわかりにくいが、二の鳥居(?)に掛けられた金色の締め縄であるとか…

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境内のそこかしこに立てられた幟であるとか、拝殿の幔幕であるとかが。

また、拝殿正面の扉と賽銭箱も新しかった。

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拝殿右手の社務所に、職員が常駐しているようだった。ここでお札や縁起物が買えるのだろうか。

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地図で見ると保育所がすぐそばにあって、ここの経営のようだ。

うちの周辺だと、熱田神宮とか尾張一宮こと真清田神社とかのような有名神社で、宮司や職員が常駐しているところはいくつか知っているが、こう言っちゃ失礼かもだが元の郷社村社で人がいるところは、他にあまり知らない。人口約7万の市内では、ここだけじゃないかな? 人口規模同じくらいの実家のある市には、一件もなかったはずだ。地鎮祭をやるときには、隣接する40万規模の某市から神主さんを呼んでいた。

由緒書。2枚上絵の写真の、拝殿正面扉の右上に写っている。

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文字起こししてみた。

諏訪神社 由緒
創祀 沿革

鎌倉街道は両村の宿駅として栄えた沓掛の地に鎮座せし古社である。
応永三十二年(一四二五年)十二月二十六日沓掛城主藤原義行公は城内の戌亥の方位(空山)の守護神として信州は諏訪大社より御分霊を仰ぎ勧請奉祀するとある。
宝永二年(一七〇五年)には現在の鎮座地である森元に移転遷座されるがこの地には往古より天津彦根命を祀る天神の杜と称す産土神が鎮座する処にて諏訪大神として合祀これより沓掛諏訪神社として祭祀現在の御神域を整えた。
現在の御本殿及び摂社二殿は寛文年間(一六六二~一六七二)建築と伝えられる。
明治四十四年十二月供進指定村社に列格せらる
昭和五年三月拝殿を新築し併せ境内の大整備を成しとげる
宗教法人法により昭和二十九年設立登記し現今に至る

御祭神
 主祭神 建御名方神 応永三十二年 信州信州諏訪大社より勧請遷座
  相殿 天津彦根命 勧請年不詳 綿津見神 勧請年不詳
     天照大御神 寛文二年 日本武尊 寛文二年
     応神天皇 天明七年
摂社
 菅原社 元禄十四年 京都北野天満宮より勧請奉祀
 津島社 元禄十一年 八坂神社より牛頭天王を勧請奉祀
 秋葉社 明和八年 秋葉神社より八幡前に勧請奉祀

末社
 荒神社 延享二年 五反田「荒神ヶ根」に鎮座
 厳島社 文政九年 根古屋に鎮座
     万延元年 西ノ口「市場」に鎮座
 山神社 文政九年 十王堂「市場」に鎮座
     嘉永三年 荒畑「石之塔」に鎮座
 山神社 文化十五年 北畑「北屋敷」に鎮座
     文政九年 海老池「根古屋」に鎮座
 昭和社 町内出身の護国之神霊を勧請創建

こちらは上掲リンク鹿島神社の由緒書ほどぶっ飛んだ内容ではなかったが、それでも興味深い点は、いくつかあった。

後になって、というか今だが、ふとHPあるんじゃないかと気づいて検索してみた。

あった。

沓掛諏訪神社

トップのメニューから「沓掛諏訪神社_由緒」というのがたどれた。内容は、扁額の由緒書きよりやや詳しい。扁額の内容を敷衍している、というやつかな?

両者を読み比べつつ、いつも摂社末社と一口に言ってしまっているが、摂社と末社は区別があるらしいと気になった。検索したら、現在は明確な区分はないが、本社とゆかりの深いものを摂社と呼んで区別することがあるとの説明が出てきた。

由緒書の内容からすると、昭和神社以外の末社は、近隣の神社を集めたもののようだ。明治期に1町村1社を原則とする神社合祀令なるものが施行された旨を、先の拙記事のコメント欄でmarco (id:garadanikki)さんから教えていただいた(今一度お礼を。ありがとうございます)。それだろう。

こういうものを丹念に読んでいくと、そのうち郷土の古地図が頭に浮かぶようになるかも知れない。

本殿右手に、摂社が並んでいる。左右二分割で撮ってみた。その右側。

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左側。これらが摂社であることはHPで知った。

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2枚上に写っている石段を上がると、奥に末社がある。これらが末社であることは…同上。

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晴れ着で着飾った少女の撮影をやっていた。反射板を持っているスタッフらしき人物もいたから、パンフレットか何かを作る撮影かも知れない。

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実はスマホで写真を撮った日以前にも、一度ここを訪れていた。その時には宮参りの赤ちゃんを連れた家族に出会った。保育園があることは前述したが、ここは子育て系統の願掛け、祈祷で収入を確保しているのかも知れない。

前回のエントリーにも書いたとおり、地元にずっと住んでいる人であれば、その手の事情は自然とわかるものだろうが、私は勤めに出て寝に帰るためだけに、この市内にアパートを借りているようなものなので、地元の事情にはうといのだ。

つか実家周辺であれば、例えば近隣から参拝客を集め門前町が賑わっている某大神社では、宮司の息子がドラ息子で金に飽かせた道楽を…なんて下世話な話が嫌でも耳に入ってくる。

もっと言えば、宮司が常駐しない大部分の神社はどうやって維持されているかというと、氏子会というものがあって、周辺の住民に強制的に寄付金(奉加金と言うんだっけ?)や仕事を割り振ることによって、かろうじて維持存続されていることを知っている。

うちの実家の老母は80近い高齢だが、そんな婆さんを強制労働に駆り出す同調圧力は恐るべきものだ。つかそういうのが嫌で、実家をおん出てよその市で孤立することを選んでいるのだ。幸い他の地方からの流入が多い地域なので、いわゆる新住民を旧来のコミュニティに取り込もうとする圧力は、あまり感じないで済んでいる。

そこまでしても、人のいる神社といない神社では風化劣化の度合いの差は歴然で、今回の諏訪神社はいろんなところが新しくて、「おっ」と思ったという次第。しょせん生身の人間が維持しているものである以上、いろいろと面倒臭い話とは無縁ではいられないのだ。「下部構造」という社会科学用語を使ってしまってもいいのかも知れない。

摂社末社は、参道にもあった。右端と左端(は石段しか写っていないが)。

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鳥居のそばに、お堂のようなものがあった。神社のそばに仏教系っぽいお堂や石仏が残っているケースは、そこかしこで見かける。うちの地方では、神仏分離は比較的過酷なほうではなかったのかも知れない。

さきにリンクを貼った諏訪神社HPには、「神宝」として筆頭に “正観世音菩薩・千手観音菩薩 明治6年聖応寺預け「証文一通」” なるものが掲げられている。

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