しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

信長よりはるか昔の2500年くらい前からずっといぢられていた人物が存在することについて

こちらの大人気エントリーに便乗させていただきます。

honeshabri.hatenablog.com

本編はもちろん、ブコメも読みでがあった。まだ誰もコメントしてなさそうなことを一点コメントさせていただくと、オチに『戦国自衛隊』の書影だけを貼るセンスも抜群だと感じた。周知であろうといえ、なんか一言でも説明したらネタバレのそしりを受ける恐れがある(←私はセンスがない

前述の通りブコメも大喜利状態で力作ぞろいだったと思うが、そのうち id:s_atom11 さんのコメントの引用をお許しください。

タイムスリップが多発する信長の歴史を統一する - 本しゃぶり

10万年後くらいの未来人に見つかって混乱してもらいたいとっておきの資料

2017/07/31 00:47

b.hatena.ne.jp

実は10万年もかけなくても、2500年ほどもあれば十分混乱できるのだ。

7月26日のエントリー前回のエントリー に、聖天こと大聖歓喜天は、ヒンドゥー教のガネーシャ神が仏教に取り入れられた仏さまだと書いた。ガネーシャだけでなく仏教は、自ら他の宗教神話から神々を取り入れたり、後世の他人が押し付けたりして、楽しいことになっている。網羅は私なんぞにはとてもとても不可能であるが、思いつくままちょっと書いてみたくなった。ブログタイトルに掲げた「ずっといぢられていた人物」というのは、お釈迦さますなわちゴータマ・シッダールタのことである。

   *       *       *

私は浄土教徒なので、阿弥陀如来の話から始めたい。阿弥陀仏は古くから仏教と習合された仏様(神様?)の一人で、アーキタイプはゾロアスター教の光明神アフラ・マズダとも、さらに古いミスラ神とも言われる(確認のため検索したら、ミスラ神に関しては名前の類似からマイトレーヤ=弥勒仏との関係を指摘する記事のヒットが多かった)。坂東性純『浄土三部経の真実 (NHKライブラリー (4))』P18によると、漢訳経典約940のうち、阿弥陀仏およびその浄土を説く仏典が274あるとのこと。ただし浄土三部経のような阿弥陀仏を主人公にする仏典限定とすると、数はがくんと減るはずで、『法華経』や『維摩経』には「さしたる用もなかりせば」とばかり名前がちょっと出てくるだけである。

浄土三部経のうち『無量寿経』によると、往古、阿弥陀仏は法蔵菩薩という名の修行者で、世自在王(ローケーシヴァラ・ラージャ)如来という仏さまを師匠として修業していたという。

浄土真宗で読誦される「正信偈」の初めの方に、次のような箇所がある。

法蔵菩薩因位時〔ほうぞうぼさいんにじ〕

在世自在王仏所〔ざいせじざいおうぶっしょ〕 

この世自在王如来というのが、実はヒンズー教の破壊神シヴァなのだという。ガネーシャの首を吹っ飛ばした物騒きわまりないお父さんである。

中村・早島・紀野訳註『浄土三部経〈上〉無量寿経 (岩波文庫)』P252の「ロケーシヴァラ・ラージャ」に対する訳注には、次のようなことが書かれている。

ローケーシヴァラ・ラージャ ― Lokeśvararāja. 「世自在王仏〔せじざいおうぶつ〕」と訳され、無量寿仏の師として重要である。この仏に対する信仰も独立に行われていたもののごとく、『ローケーシヴァラ讃』(Lokeśvarastava)という書も残っている。また碑文にはローケーシヴァラがアヴァローキテーシヴァラ(観世音菩薩)を意味して使われている例もある。しかしローケーシヴァラとはヒンドゥー教ではシヴァ神の別名であるから、この点で何らかの連絡があるのかもしれない。

おいおい、観世音菩薩=観音さまが出てきちゃったよ! 観世音菩薩は、阿弥陀三尊像では勢至菩薩とともに脇侍を務めているが、独立の仏さまとして拝まれることも多い。そもそも観世音菩薩が仏教に入ってきたのは、阿弥陀仏より先のようでもあるのだ。

江戸時代に在野・夭逝の天才学者として知られる富永仲基という人がいた。なんだか形容詞が多いな。代打逆転満塁サヨナラホームランみたいな人だな。余計なことを言うと読者を混乱させるだけですね、すみません。私はこの人のことを、宮崎市定や司馬遼太郎のエッセイ経由で知っているだけで、著書や解説書を読みたいと思いながら、残念ながらまだ果たせていない。

富永の提唱した学説に「加上説」というのがある。「加上説」については、以前に一度、書いたことがある(http://www.watto.nagoya/entry/2015/12/19/083000)。おおざっぱに言えば、後から付け加えられたキャラクターのほうが、より古く、より強くなる傾向があるということだ。仏教でいうと、原始仏典ではブッダと仏弟子くらいしか登場しないが、次世代の般若経典では仏と人の中間として菩薩が登場し、続く浄土経典ではブッダ以外の如来が登場する。般若経典では独立した仏さまであった観世音菩薩が、浄土経典では阿弥陀如来の脇侍の一人になってしまうのだ。

さらに後世代の密教では、阿弥陀如来も大日如来を囲繞する四方仏の一人(一仏?)になってしまうし、禅宗では原点復帰ということか、釈迦如来以外の仏は影を潜める。称名も禅宗では「南無阿弥陀仏」ではなく「南無釈迦牟尼仏」である。

坂本・岩本訳注『法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3)』には、このあたりの事情が保存されていると思われるくだりがある。

「観音経」(正確には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」)は、日本では宗派を超えてよく読誦されている経典である。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』で出家時代の井伊直虎がよく読んでいたお経が、これだ。

そのうち偈文は、次のように締めくくられる。

具一切功徳 慈眼視衆生
福衆海無量 是故応頂礼

すべての徳を完成させ、すべての人間に慈悲の目をもち、
徳の化身であり徳の大海であるアヴァローキテーシュヴァラを礼拝せよ。

 『法華経〈下〉』P266、267 一部漢字を正字から略字に変更しました。

ところがサンスクリットの原文には、次のような続きがあるのだ!

彼は世の人々に憐れみを垂れ、未来において仏となるであろう。
あらゆる苦悩と恐怖と憂いを滅すアヴァローキテーシュヴァラを、私は礼拝する。
ローケーシュヴァラ=ラージャ(世自在王)を指導者とした僧の
ダルマーカラ(法蔵)は、世間から供養されて幾百劫という多年のあいだ修業して、
汚れない最上の「さとり」に到達してアミターバ(無量光)如来となった。
アヴァローキテーシュヴァラはアミターバ仏の右側あるいは左側に立ち、
かの仏を扇ぎつつ、幻にひとしい一切の国土において、仏に香を供養した。
西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカーヴァティー(極楽〔ごくらく〕)世界がある。
そこに、いま、アミターバ仏は人間の御者として住む。
そして、そこには女性は生まれることなく、性交の習慣は全くない。
汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の胎内に座る。
かのアミターバ仏は、汚れなく心地よい蓮華の胎内にて、
獅子座に腰をおろして、シャーラ王のように輝く。
彼はまたこの世の指導者として三界に匹敵する者はない。わたしはかの仏を讃歎して、
『速やかに福徳を積んで汝のように最も優れた人間(仏)となりたい』と祈念する。

前掲書P267、269

まさか経訳者の鳩摩羅什が訳をサボったわけではなかろうから、この部分は経典の漢訳が完了したのちに、サンスクリット原典に誰かが付け加えたものであろう。『法華経〈上〉 (岩波文庫)』の「薬草喩品」の終わりにも、漢訳がなくサンスクリット原典のみに存在するという、かなり長い文章が掲載されている(P287~299)。

同一性保持権など著作権という概念が確立したのはごくごく近世に至ってのことで、我々の目にする古典の多くは後世の手による改変や付加を経たものなのだ。

観音経の追加部分に対する突っ込みどころはいろいろあると思うが、あまり一般的には通じないであろうことをあえて説明すると、この部分はまさしく浄土教の教義が色濃く反映されているのだ。ぶっちゃけ主人公がアヴァローキテーシュヴァラ(観音)からアミターバ(阿弥陀)に変わってしまっている。

日本仏教の歴史においては、法華経を根本経典とする宗派と、浄土教系の宗派は、激しく対立してきたのだ。今日ではそれがピンとくる人も少なくなっていることであろうが。ところがオリジナルのサンスクリット話者の間では、これだけ融通無碍に融合してしまっている様を見ると、つくづく党派性というのは幻想にすぎないのだなと思わされる。だがその党派性から離れられないのもまた、人間の性〔さが〕というものであろう。

なお上の引用部に出てくるシャーラ王とは、P410の注によると「ヒンドゥ教のウィシュヌ神のこと」とある。ウィシュヌ神とは維持を司るヒンドゥー教の三主神の一人で、残りの二主神が創造神ブラフマーと破壊神シヴァである。ウィシュヌ神は10種の化身(アヴァターラ/アバター)を持つとされるが、その造形は仏教の十一面観音像を連想させる。

一方、ヒンドゥー教側では、ブッダはウィシュヌのアバターのうち9番目で、偽りの教えを述べ人々を混乱させる役回りであるということを、確か三島由紀夫の『天人五衰』(でなければ「豊穣の海」シリーズのどれか)で読んでショックを受けた記憶がある。ただし検索で確認した限りでは、それほどネガティブな表現は見当たらなかった。

こういう時系列バラバラのカオスっぽさって、面白くないですか?

   *       *       *

毘沙門天や七福神についても何か書こうと思ったが、いい加減、長くなりすぎてしまった。ざっとクロッキーだけ。

以下のくだりは、id:iirei さんのエントリー 『寒山詩:高僧でもないパシリの寺男の偉大な境地 - 虚虚実実――ウルトラバイバル』を読ませていただいて思いついたことです。 iirei さんに改めて感謝します。

日本には本地垂迹説といって、アマテラス=大日如来、イザナギ=釈迦如来など、日本古来の神々は仏教の諸仏が化身(権現:権〔かり〕に現れる)した姿だとする説がある。

中国はもっと大胆で、自国の高僧、名僧をズバリ仏の化身だと称することが、ままあるのだ。寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩、よく考えたらネタバレだけど森鴎外『寒山拾得』に登場する豊干禅師は釈迦如来、中国浄土教の祖である善導和尚は阿弥陀如来の化身とされる。

そして実在の禅僧である布袋和尚は弥勒菩薩の化身とされ、七福神の一人として日本にも入ってきた。なお大黒天はまたしてもシヴァ神の化身である。

もっとも実在の人物を仏の化身とする考えは日本にもないわけではなく、浄土宗の元祖である法然坊源空上人は、よく勢至菩薩の化身とされる。浄土宗の総本山である知恩院には、法然上人の本地である勢至菩薩を本尊としてまつる勢至堂というのがあるし、親鸞「浄土和讃 勢至讃」の末尾には

源空聖人〔げんくうしょうにん〕御本地〔ごほんじ〕なり

浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版』(本願寺出版社)P577

と記されている。

では観音菩薩はというと、親鸞聖人が奥さんの恵信尼を観音菩薩になぞらえたと言われ、一方「恵信尼消息」には「法然上人が勢至菩薩の化身であり、親鸞聖人が観音菩薩の化身であるという霊夢を見た」というくだりがある(『浄土真宗聖典』P812~813)。いや聖徳太子こそが観音の化身であるという説があったり、はてなブロガーの 山倉梨子(id:rico_note)さんの同僚がそうだ(「嫌いな人の正体が明かされた時の驚き - ココッチィ」…これもネタバレ)という説があったりするのである。

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