しいたげられたしいたけ

拡散という行為は、元記事の著者と同等以上の責任を拡散者も負う

筆を曲げたか内藤湖南先生? 『翁の文』と『大阪の町人学者 富永仲基』

富永仲基について、過去に何度か原典に当たらず孫引きでエントリーを書いてしまった。そういうことじゃいけないんだけど、なかなか本が入手できなかったのだ。

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異なる仏典に同じ仏名や似たようなエピソードがしばしば登場することについて(その2) - しいたげられたしいたけ

そんなことを言っていてはいけないと少し反省して、まずは dk4130523(id:cj3029412)さんのアドバイスに従って、『大阪の町人学者 富永仲基』を手に取ってみた(以下、『大阪の町人学者』と略記)。そういう本があることは知ってたんですよ。ちょうど読もうと思ってたところだったんですよ … って私は夏休みの宿題をやってない小学生か?

信長よりはるか昔の2500年くらい前からずっといぢられていた人物が存在することについて - しいたげられたしいたけ

ご参考まで(あまりにうれしくて)、富永仲基のことは、内藤湖南が大変に褒めています。青空にもあり。ただ湖南先生は縦書きを紙で、がお勧め。地元宴席の講演原稿なので割引が必要ですが、漫談みたいで楽しいです。

2017/08/04 09:45

b.hatena.ne.jp

青空文庫のリンクはこちら。

内藤湖南 大阪の町人學者富永仲基

「縦書きを紙で」となると、Amazon オンデマンドが利用できた。ゴマブックス版だと内容50ページのブックレットで、旧字、旧仮名遣いが気にならなければ、気軽に読めてしまうものだった。 

大阪の町人学者富永仲基

大阪の町人学者富永仲基

 

ところが、書いてあることが記憶と違うのだ。司馬遼太郎のエッセイには、富永は「仏教などインド思想の悪癖はSF、儒教など中国思想の悪癖は誇大化、日本思想の悪癖は隠蔽」という趣旨のことを言ったと書いてあったはずだ。ただし一応、蔵書を調べられる限り調べてみたのだが、出典は発見できなかった。

それが、『大阪の町人学者』には、こうある。青空文庫より。

 それから富永は、學問といふものに國民性があるといふことを考へたのであります。その當時に印度と支那と日本との國民性について斯う考へたのである。印度人の國民性を一言にして「幻」と批評し、支那人の國民性を「文」、日本人の國民性は「質」或は「絞」と、絞といふのは正直過ぎて狹苦しいのでありますが、兎も角一字で批評をしたのであります。僅か一字で大變よく批評してあると思ひます。 

 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1735_21416.html /オンデマンド版P37

「文」というのは「修辞」という意味である。しかし、「質」あるいは「絞」というのは、「隠蔽」とは全然違うじゃないか! どういうことだ?

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これは何としてもオリジナルに当たらねばと、Amazon マーケットプレイスを探した。加藤周一編『日本の名著 (18) 石田梅岩・富永仲基 (中公バックス)』という書籍が入手可能だったので、発注した(以下『日本の名著18』と略記)。 

日本の名著 (18) 石田梅岩・富永仲基 (中公バックス)

日本の名著 (18) 石田梅岩・富永仲基 (中公バックス)

 

そのうち『翁の文』は、2段組とはいえわずか17ページだから、すぐ読めた。

内藤の上掲引用部に相当すると思われるのは、『日本の名著18』では、下に引用した部分であろう。現代語訳だけど。

まずインド思想について。

 仏道の特徴は、幻術である。幻術というのは、今の飯
繩のことである。インドは幻術の好きな国で、道を説き、
人を教えるにも、この幻術を適当にまじえて導かなけれ
ば、誰も信じてしたがおうとはしない。だから釈迦は飯
繩の上手であった。かれが六年開山にはいって修行した
というのも、この飯繩を学ぶためだったといわれている。
 また、諸経に書かれている神変・神通・神力などとい
うのも、すべて飯繩のことであって、白毫光のうちに三
千世界を現わし、広長舌を出して、その舌を梵天(仏の
住む世界)にまであげられたということや、あるいは維
摩詰が、八万四千の獅子座を方丈(一丈四方)のなかに
設けたり、神女が舎利弗を女にしたということなどは、
みなこの飯繩をつかったものである。≪略≫

日本の名著 (18) 』P69 ルビ、注釈あるも省略、以下同じ

インドに関する文章はもう少し続くけど、省略しています。マジックを「飯繩〔いづな〕」と書いてあるのが興味深い。「白毫〔びゃくごう〕」というのは、仏像の額にあるポッチである。仏典によると、お釈迦さまはここからビームを出して、さまざまな奇瑞を起こす。維摩詰が獅子座をインポートしたことは 8月14日付の拙記事 にも少し書いた。細かいことを言うと数字が違うな。 

それが『大阪の町人学者』では、次のように要約されている。最初の引用部に続く箇所だ。

印度人は何でも空想的なことを好みまして、前にも言うた通り、芥子粒の上に須彌山が現じたりするといふ風に、大變突飛な魔法使みたやうなことを考へる。それでお釋迦さんの所謂外道、佛教の外の印度の各派宗教のやるのは幻であつて、佛教の方でやるのは神通である。幻と神通が違ふと申しますけれども、實は幻も神通も同じもので、手品使が印度人に近い手品に合ふやうな宗教を組立てたと、斯ういふことを言ひました。

 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1735_21416.html /オンデマンド版P37

   *       *       *

 次に中国思想について。

 また儒道の特徴は、文辞(文章の言葉)である。文辞と
いうのは、いわゆる今の弁舌のことである。中国はこの
文辞の好きな国で、道を説き、人を導くときにも、これ
を上手に使わないと、みなはそれを信じて従うというこ
とがない。たとえば、礼という字について説明する場合
にも、もともとは冠婚喪祭の四大礼式のことを礼という
はずのものなのに、それを「人の子たるの礼、人の臣た
るの礼」と、人の道についてまでいい、また視聴言動に
ついても、あるいは「礼は天地の別なり」などと、天地
にまでかけていうのだが、これによっても、いかに中国
は文辞が好きかかわかるだろう。
 また、楽という字なども、ほんとうは、ただ鐘や太鼓
を鳴らして心を慰めることをいうものなのに、それを
「楽といい、楽という。鐘鼓をしもいわんや」などとい
ったり、また「楽は天地の和なり」などというのだが、
これからもそれがよくわかるだろう。また聖の字なども、
もともとは知恵のある人についていう言葉であるのに、
それを拡大して、人間の最上のもので神変さえあるかの
ようにいうようになってしまっている。≪略≫

日本の名著 (18) 』P69

これももう少し続くけど省略。「誇大化」というのとは少し違ったかも知れないが、これはこれで興味深く感じた。オリジナルの古典では素朴なものだった記述が、後世の人間の解釈によってどんどん難解で深刻なものに変質していく傾向は、中国思想に限らずわりと広く観察できるように思われる。

『大阪の町人学者』より。インド人の次の箇所だ。

支那人は何でも文飾を好む、言葉でも何でも飾る、飾らんと承知しないので、それで支那人の國民性は文であります。

 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1735_21416.html /オンデマンド版P37~38

 短いですね(いらんことを言わんでもいい>自分

   *       *       *

そしていよいよ日本人に関する記述だ。

 さて、また神道の特徴は、神秘・秘伝・伝授といって、
ただ物をかくしてばかりいることである。だいたいかく
すということは、偽や盗の、その根本となるもので、幻
術や文辞は、見ていてもおもしろく、また聞いていても
聞きがいがあるものだから、それはそれなりにゆるされ
るところがあるものである。ところが、ただこの神道の
特徴だけは、どうにもそれらにくらべ、まったく劣った
ものというべきであろう。
 もっとも、むかしは、人の心も素直であったから、こ
うしたものたちを教え導くには、それだけの効果もあっ
たであろうが、今は、もはや末の世であって、偽や盗を
するものが多いのに、神道を教えるものが、かえってそ
の悪いところを擁護するようなことは、はなはだ道理に
もとることだといわねばならない。
 あのいやしい猿楽や茶の湯のようなものに至るまで、
みなこのかくしごとの欠点を見習い、伝授印可(免許状)
というものを作り、そのうえ値段を定めて、生計のため
にばかりするものとなっている。まことに悲しむべきこ
とである。それなのに、その秘伝・伝授というものを作
った理由をたずねると、その能力が熟していないものに
は、すぐに伝授することが困難であるからだと答える。
 これにも一理あるようだが、ひたすらかくして簡単に
伝授することをせず、また値段を定めて伝授するという
ような道は、すべて誠の道ではないということを、よく
心えるべきである。

日本の名著 (18) 』P69

猿楽(=能楽、狂言)や茶道を「いやしい」としているなど、議論になりそうなところはあるがさておく。これが私が司馬遼太郎のエッセイで読んだはずと記憶している内容と、ピタリと一致した。「幻」や「文」はまだマシだが、隠蔽主義の害悪ははなはだしいと断じた部分が特に。

では『大阪の町人学者』の、中国人に続く部分がどうなっているかというと…

日本人は至つて簡單な正直な考へで、いろ/\幻みたやうな文みたやうな、目まぐるしい廻りくどい奴にぶつかると、日本人の頭では分らなくなつて、何か見當が付かないから、日本人は正直な眞つ直ぐな、手短かに言うた方が一番分りがよいので、それで日本人は質とか絞とかいふことになる。

青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1735_21416.html /オンデマンド版P38 一部外字置き換え

この文章だけを取り出して読むと、それなりに正鵠を得ているというか、「さすが」と感じる。日本浄土教の「専修念仏」や禅宗の「只管打座」は、すぐに思い浮かぶ。

だが、書いてあることが違うことは揺るがない。

あるいは少し後に「これが『出定後語』の大体であります」(オンデマンド版P39)という文言がある。『出定後語』は『日本の名著18』で99ページあり『翁の文』より分量が多い。今がんばって読んでいるところでまだ全部は目を通していないが、未読の部分にそういう記述があるのだろうか?『出定後語』の主対象は儒仏道で神道はあまり出てこないし、こちらの主題は「加上説」やひいては「大乗非仏説」のはずだから、そんな気もしないのだが…?

『大阪の町人学者』は、大正14(1925)年の講演速記録が原稿だそうだ。国家総動員法(1938)や治安維持法(1941)よりは前とはいえ、明治帝国が神道を事実上の国教にしていたことに配慮したのだろうか? 今どきの流行り言葉でいえば忖度ってやつだな。

配慮、忖度と言えば、『翁の文』というタイトルは、富永が名も知らぬ翁(老人)の問わず語りを書き留めて出版したという建前に基づく。江戸時代のことで、そんな言い訳をしたって公儀の目に留まればたちまち弾圧対象になったことだろうが、気休めでも付け加えずにおかれなかったのだろう。

学問の自由というものが社会的に認められたのは、ごく近年に至ってのことであり、また学問というものが、必ずしも理想的な環境の下でばかり発展したわけではなく、むしろ歴史的にはずっと逆境の下で発展したものであることは、学問に興味を持つ者が常に心に刻んでおかなければならぬことの一つかも知れない。

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司馬遼太郎のエッセイを探して見つからなかったのは前述の通りだが、代わりにこんな文章を見つけた。代わりにはならないか。我々はやはり内藤らに大いなる学恩を受けているのだ。

司馬遼太郎・井上ひさし『国家・宗教・日本人 (講談社文庫)』より。対談本だが、引用部はすべて司馬が喋っている。新装版が出ているが、引いたのは旧版からだ。

 明治三十年ごろ、原敬も乞われて大阪毎日の社長になっていますね。明治二十年代には内藤湖南という、当時まだ無名のノンキャリアの学者が大阪朝日の論説委員の助手のような立場で入社して、大阪の江戸時代の独創的な思想家を発掘するという大仕事をしました。
 その一人は富永仲基という醤油問屋の若旦那です。三十歳で亡くなるんですが、近代的な文献学そのもので仏典を調査して、大乗仏典つまり阿弥陀経や法華経は全部お釈迦さんの言葉ではなく、四世紀、五世紀ぐらいにできたものだということを明らかにした。それで本願寺の大谷光瑞が震え上がって、のちに大谷探検隊を敦僅に派遣することになるんです。
 湖南は秋田師範しか出ていないんですが、そのあと彼は京都大学の初代中国学教授になる。平凡社の百科事典の「内藤湖南」の項をお引きになったらわかりますが、そのとき円地文子さんのお父様が文部省の局長で「ノン」と言い、その下の小役人が、「わが国の帝国大学教授は、孔子様でいらっしゃろうと帝国大学を出ていなければなれません」と言ったという。それで湖南は講師を一年ほど務めてから教授になるんですが、その自由無礙の思考法は理学部にまで影響を与えた。後年、湯川秀樹さんらが出る素地は、内藤湖南の驚くべき開明性と無縁ではなかったと思います。
 内藤湖南を京大に引っ張った人も偉いですね。明治三十年ぐらいの話ですが、狩野亨吉さんという、東大で数学と哲学を修めて、第一高等学校の校長だった人が、京都にもう一つ帝大をつくるという話が持ち上がったとき、文科大学校の創設委員のひとりになって、さらに文科の学部長になります。ただし、東京大学は文明の受容をやったから、京都は独創をやらなければいけないというテーマがあった。すると狩野さんは大真面目に「日本人に独創性ありや」と思い、古本屋という古本屋をまわって江戸時代の筆写本の類を集めさせ、点検に次ぐ点検をして数人の独創家を発見した。その中に安藤昌益もいるんですけれども、ついに狩野さん、嫁さんをもらえずに生涯独身でした。こんな人いると思いますか、いまの人に。

 司馬遼太郎・井上ひさし『国家・宗教・日本人 (講談社文庫)』1999 P121~123  ルビあるも省略

新装版 国家・宗教・日本人 (講談社文庫)

新装版 国家・宗教・日本人 (講談社文庫)