しいたげられたしいたけ

建築家は外装の失敗をツタで隠し、料理人は味付の失敗をマヨネーズで隠し、政治家は内政の失敗を戦争で隠す

覚王山日泰寺から東山給水塔周辺を散策

この夏に二度ほど京都に行った。その時のブログに、かつて京都に住んでいて、京都から離れたときに「京都ロス」とでも言うべきヘンな感情に襲われた旨を書いた。京都は辻ごと、区画ごとに歴史が感じられるが、他の地方ではそういう感覚が希薄であることを嘆いたのだ。実際、等持院を訪れたとき は室町時代の雰囲気を、壬生寺を訪ねたとき は幕末の雰囲気を、それぞれ強く感じた。本物の室町時代や幕末のことを知っているはずもないのだが、そんな気がしたということで。

だがそれは私の勘違いであって、人間の暮らしある以上、その土地土地に歴史も文化もあるはずだ。地元でこそ、そうした歴史や文化を見出し大事にすべきだと思った。そんなことを自分に言い聞かせながら、あちこちぶらぶらしている。何のことはない他人から見たらただの散策である。

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今回はブログタイトルに掲げた通り、名古屋市千種区の覚王山日泰寺から東山給水塔周辺を散策した。

名古屋市営地下鉄「覚王山」駅で下車し、立派な参道を辿ると、正面に五重塔が見えてきた。名古屋には五重塔は、ここと八事山興正寺というところにしかないはずである。興正寺は今ちょっとモメている(一言多い

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山門と本堂が真正面に並ぶアングル。

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山門前。京都か奈良か、とにかく名古屋じゃないみたい。

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境内案内図。

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散策マップ。

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案内書。

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案内書の文章を文字起こししてみる。

 覚王山 日泰寺
 タイ(シャム国)国王から寄贈
された釈迦の舎利(遺骨)をまつ
るため、明治三十七年(一九〇四
年)建立されたわが国唯一の超宗
派の国際的寺院である。
 山号は釈迦を表わす〝覚王〟寺号
は日タイの友好を願い〝日泰寺〟と
名付けられた。
 ガンダーラ式奉安塔は、全国で
もまれな一大石造塔である。

なんで名古屋に持って来たんだろう? 東京でも京都でもなく? そりゃ私は名古屋周辺在住だから、名古屋の方がいいけど。

 

山門には、仁王像ではなくなぜか仏弟子像があった。

左側の摩訶迦葉〔まかかしょう〕尊者。

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右側の阿難〔あなん〕尊者。

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上の写真の左下に見える銘板を接写した。

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こちらも文字起こし。

迦葉尊者阿難尊者像
山門正面向って左迦葉尊者右
が阿難尊者である 迦葉尊者
は佛弟子中の最長老で釈尊滅
後の佛教教団を率いて佛教第
二祖となった 阿難尊者は釈
尊の従弟で晩年の釈尊に侍者
として二十余年仕えその最後
を看取った
制作 芸術院会員 圓鍔勝三
平成元年秋 覚王山日泰寺

仁王の代わりに仏弟子二人というのは、どこか別のところでも見たことがあるような気がするのだが、どこだったか思い出せない。名都美術館の「江場琳黌・江場琳觀展」だったっけ?

 

山門の左から五重塔の全景を。

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本堂。中に入れたが内部の写真は遠慮した。

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山門は南面している。東側の門から出て、少し歩くと奉安塔のある敷地の入り口にたどり着く。ただし奉安塔は、そばでは見られなかった。なお周囲は大規模な墓地である。

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奉安塔の西側、日泰寺本殿の真北のあたりに、東山給水塔がある。

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接近できないかと思って、給水場の敷地の周囲を一回りした。

これは真西のあたりから見たところ。周辺は「山の手」とでもいうのだろうか、高級住宅街らしく、マンションも一戸建ても、外装がよさそうなものを使っているところばかりだ。見かけた車もベンツやクラウンやレクサスだし。

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結局、東側の姫池通りという大きな道路に面した側から、敷地に入れたらしい。

ただし現在は工事中のため立入禁止だった。

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フェンスに「東山配水場3・4号配水池の更新工事中です」という看板がかかっていた。

「配水池の老朽化対策・地震対策のため、3号・4号配水池を取壊し、新しい3号配水池を築造します」とのことである。

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左下のコラムの部分のみ文字起こし。

東山配水場について
(1) 創設期
 給水人口46万人に対する給水量の約8.5時間分を保持するため、明治43年1月より配水池の築造工事に入り、大正2年、1号配水池と2号配水池の2池が竣工しました。(写真1・2)
(2) 拡張工事事業
 市制の発展と編入や合併による新市域の拡大に伴う拡張工事が給水人口100万人を目標に大正15年1月に着手、給水量の約10時間分を保持するため、新たに3・4号配水池を増設し昭和3年に竣工しました。(写真3)
(3) 東山配水塔築造(現東山給水塔)
 市の東部千種区、田代町、広小路町方面の地盤が高く、住宅地としての発展が目覚ましく、給水状態は市内一般と比べ不完全でした。その欠陥を補うために昭和5年に東山配水場内に配水塔を築造し、給水を完全にすることにしました。(写真4)

つまり日泰寺とほぼ同時代の起源ってことだな。京都の区画から室町や幕末の雰囲気を感じたように、名古屋のこの区画から明治大正の雰囲気を感じているか私?

 

「飲水思源」の碑。水を飲むときは源(を作った人、管理する人)の存在を考えろという意味らしい。

左下に銘板のようなものがあるが、この写真を撮ったときは気がつかなかったので接写しなかった。

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「水の歴史 プロムナード」

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姫池通を南下し、地下鉄のある広小路通に戻った。

通りの右側(南側)に、こんな案内板があった。地下鉄を降りたときは通りの左側(北側)だから気づかなかったのだ。

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 右上のコラム。

 暹羅〔シャム〕王国から日本へ贈られた仏舎利(釈迦の遺骨)を安置するため、明治37年(1904年に建立された寺院は、「覚王山日暹寺〔にっせんじ〕(左写真)」と名づけられ、後に暹羅〔シャム〕から泰〔タイ〕へ国名が変更されたことにより、現在の「覚王山日泰寺」となりました。この寺院の名前が由来となり、付近一帯を「覚王山」と呼ぶようになったといわれています。
 明治44年(1911年)、名古屋電気鉄道覚王山線(後に市電となる)が広小路通に開通すると、終点であった覚王山の一帯は人々の往来でにぎわいました。
 また、市電が通っていた広小路通と「覚王山日泰寺」を結ぶ参道は商店街へと発展していきました。
 現在は、昔ながらのお店や個性的なお店が数多く建ち並ぶほか、毎月21日に行われている「弘法大師の縁日」、商店街が主宰する季節ごとの「覚王山祭」や「参道ミュージアム」など、高齢者から若者まで多くの人でにぎわっています。

 右下のコラム。

東山動物園のゾウと覚王山
 昭和24年(1949年)10月、仏舎利が日本に送られてから50周年を記念して、東山動物園のゾウが覚王山を訪れ、参道を練り歩きました。
(写真は象の「マカニー」が日泰寺に向かって参道を歩いているところです。)
 写真:報道写真集『名古屋情熱時代』(樹林舎)より、名古屋タイムズアーカイブス委員会所蔵

案内板を読みながら、今回の締めのつもりで、広小路通に面した日泰寺参道の入り口を。この右奥が今回のエントリーの1枚目の写真である。

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