しいたげられたしいたけ

拡散という行為は、元記事の著者と同等以上の責任を拡散者も負う

「文化の盗用」を論じる補助線としての「中心(的)文化」と「周辺(的)文化」

「文化の盗用」は触れば血がにじむようなデリケートな話題だが、「知的遊戯」のそしりを覚悟の上で、もう少し考えてみたい。簡単に結論の出ない問題だからこそ、考え甲斐があるのだ。なお弊ブログでいう「知的」とは「体を動かさない」ほどの意で、「知能の優劣」のような含意が一切ないことは、折につけ断っている通り。

東雲長閑(id:shinonomen)さんから弊ブログの過去記事に、次のような言及をいただきました。ありがとうございます。

shinonomen.hatenablog.com

東雲 さんの記事によると、外国人が日本語を話すことに対して「文化の盗用」という批判は生じないが、関西人以外が関西弁を真似てしゃべることに関して関西人は不快に感じる人が多いという指摘があり、それを「文化的盗用だ」と指摘する意見(ブコメ)もあったとのことだった。

元記事にはマクドナルド広告と半沢直樹の例が示されている。私も思い当たるところが他にあって、女優の室井滋氏のエッセイのどれかに、関西に撮影に行ったとき、タクシーの中でふざけてマネージャーと関西弁もどきを喋っていたら、運転手を怒らせたという話が載っていたと思う(手元に本がないので今すぐには確認できないが『キトキトの魚』か『むかつくぜ!』のどちらか)。

『新世紀エヴァンゲリオン』の最初のTVシリーズでは、登場人物の鈴原トウジが喋る関西弁の不自然さが、しばしば槍玉に上げられたんじゃなかったかな。

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最も肝要なメルクマールが「悪意の有無」であることは、論を待たない。問題はその「悪意の有無」を外形から判断するすべを、我々が持たないことだ。

明らかに悪意を有する相手でも、「悪意がない」としらばっくれられたら、以降は「内面の自由」に属する範疇と言わざるを得ない。また逆に、悪意のない相手に「内心の悪意の保有」の濡れ衣を着せる陥穽もある。

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東雲 さんは、分析(線引き)に「パブリックドメイン」と「私的」という語を用いている。だが「パブリックドメイン」という語の元々の定義とは、やや齟齬があるように感じられる(参考までにウィキペディアへのリンクを ⇒パブリックドメイン - Wikipedia)。私はどこかで「中心文化」(または「中心的文化」)と「周辺文化」(または周辺的文化」)という語を聞きかじった記憶がある。

ここでは「中心文化」を、「ある地域範囲で、優勢でありスタンダードとして摸倣の対象となる文化」、「周辺文化」を「中心文化以外の文化」と定義しよう。

「中心文化」と「周辺文化」の区別が、「文化の盗用」を判定する補助線とならないかというのが、今回の趣旨である。いつもの通り自分用メモにすぎないのだけど。

なお「中心文化」と「周辺文化」は、対象とする地域範囲に依存して入れ替わることがある。これも当然ながら。

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サン=テグジュペリ『星の王子さま』の最初のほうの挿話である。小惑星を発見したトルコの天文学者が、初め、自国の正装にて国際学会の発表をおこなったところ、相手にされなかった。

『星の王子さま』は、イラストも著者で著作権が切れてるから、引用していいんだよね?(誰に訊く?

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ところがヨーロッパ風のスーツに身を固めて同じ内容の発表をおこなったところ、今度はみな彼のいうことを信じたというのだ。

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原作では、このエピソードは「童心を忘れた大人への批判」というテーマの一つとして提示されたものであろう。

だが二十世紀初頭において、ヨーロッパ風衣装は「中心文化」の地位を確立していた例としても使えるだろう。

いらすとや さんから「スーツを着た男性のイラスト」をお借りします。比較のため左右反転しました。

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適切な和装の人物が見当たらなかったので、「落語家のイラスト」で代用します。こちらも左右反転しています。

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私は和装は優れた伝統文化だと認識している。だが国際的な学会発表の場にふさわしい衣装とは言えまい。

さらに思考実験として、トルコ人天文学者が和装で国際会議の場に現れたら、他の参加者はどう考えるだろう? 日本人がトルコ風の衣装で公的な場に現れたら、聴衆はどう思うだろうか? 必ずや、なぜあえてそのような装束を身に纏ったのかと、背後にある意図を推察しようとするだろう。ただちにそこに悪意の存在を感じ取る人がいたとしても、不思議ではあるまい。

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サン=テグジュペリの描いたトルコ風衣装が、本当にトルコ風なのかという疑問も、当然浮かぶ。「△△風」と称して本当の「△△風」とは似ても似つかない衣装を提示されたとき、生来その「△△」と称される文化圏に所属している人々が、多くの場合不快を感じるであろうこともまた、興味深い考察対象を提示しているように思われる。

関西弁に話を戻すと、ネイティブの関西人は、関西弁を始めとする自分たちの文化が「中心文化」ではないことを、内心認めているのではなかろうか。関西には、かなりラジカルな「関西文化中心主義者」とでも言うべき人々が存在するにしても。

しかし前述の通り「中心文化」と「周辺文化」は、範囲のとり方によって入れ替わることがある。日本国内では「標準語」あるいは「東京弁」が言語における「中心文化」に違いないが、国際社会に範囲を広げると日本語は「周辺文化」となる。国際社会における言語的な「中心文化」である英語国民には「 “awful English” すなわち(外国人の喋る)恐るべき英語に耐えよ」という一種ノブレス・オブリージュのような意識があると言われるが、日本語においては “awful English” に相当する語は見当たらない。

念のために断っておくと、だからといって英語話者がそれだけで日本語その他の言語の話者より優れているなどと言うつもりはない。米英には、日本人や亡命ロシア人など各国出身者それぞれ独特の訛りを摸倣して笑いをとるコメディアン、ボードビリアンがいるという。日本語における「役割語 - Wikipedia」の「アルヨことば」のようなものだろうか。偏見の持ち主は、どの国、どの地域にもいるものだ。

なお現代アラビア語は、話者数が多く広範囲に分布しているため、方言の分化が著しいそうだ。アラビア語のスタンダードはコーラン文語だそうで、かつてイラク大統領だったサダム・フセインの演説は、すべてがこのコーラン文語、すなわちアラブ世界全体へのメッセージだったという。

つまり範囲を「アラブ世界」にとると、コーラン文語が言語的「中心文化」ということになるわけだ。

なおこの話の出典は『外国語をどう学んだか (講談社現代新書)』というアンソロジーで、アラビア語の項の著者は、あの小池百合子氏、現在の東京都知事である。

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私はこの「中心文化」と「周辺文化」という概念を、どこで聞きかじったのだろう? 8月15日付の拙記事 に、仏典の『法華経』は、大乗仏教を生んだ文明の、中心的な地域からではなく周辺的な地域で成立したのではないか、という説がある旨を書いた。出典の渡辺照宏『日本の仏教 (岩波新書)』を調べたら、当該箇所は意外と短かったので、ここに引用する。

まず「(『法華経』という)経典自体のうちに見られる社会的特異性*が認められるとすれば、『法華経』がインドの正常社会においてではなく、特殊の環境で発生したのかも知れないという可能性さえも出てくる」とし、「中心文化」、「周辺文化」どころではない「正常社会」「特殊の環境」という強烈な言葉が使われていた。

そして「社会的特異性*」という言葉に対して、本文中に二段下げ小文字の注釈として、次のような文章があったのだった。

*『信解品』に有名な長者窮子の喩えがある。五十余年間、他国に放浪していた息子にめぐりあった大金持の父が、息子の方では父と知らずに恐れて逃げようとするので、二十年のあいだ糞穢の掃除をさせ、次第に取りたててて、遂に後継者として宣言するという説話である。ところが古来カースト制度の厳重なインドの正常社会では、今も昔も、こうした事実は考えられない。仏教の教団に出家したものには、カーストは無効であったが、社会制度としてのカーストは仏教でも否定しなかった。したがって、たとえ譬喩としても、こうした話には現実味が乏しい。もし考え得るとすれば、バラモン文化の影響の少い社会環境でなければならない。また『提婆達多品』が『法華経』に編入された時期については問題があるが、その記述によれば、デーヴァダッタこそは、前世においてシャーキャムニのために『法華経』を教えてくれた恩人であった。仏教教団では一般にデーヴァダッタを異端者・反逆者とよぶが、歴史的事実としてインドには、シャーキャムニが仏陀であることか承認せす、特別の戒律を守るデーヴァダッタ派の仏教が後世まで存在していた。法顕は五世紀にネパール国境近くで、玄奘は七世紀にベンガール地方で、デーヴァダッタ派の仏教の実状を見てきた。こういう特殊な派と結びついた点から考えても、『法華経』が正統派の仏教とは別の方面で成長したことが推察される(この『提婆達多品』について、『法華経』によれば反逆者さえも救われるというのは後世の註釈家の議論で、経典の本文にそうは書いてない)。

『日本の仏教』P184

短く言えば、前半は「カースト文化外」、後半は地理的に「ネパール国境近く」や「ベンガール地方」などデーヴァダッタ派の仏教が存在していた地域という二点を特定しているのである。カースト制度のある社会を「正常社会」と呼ぶことには違和感があるが、文化はあくまで相対的なものなので、そういう呼称がアリなのはわかる。要するに私の記憶違いで、「中心(的)文化」「周辺(的)文化」という言葉が、ここに出ていたのではなかった。

何が言いたいかと言うと、もし私が単行本にして1000ページ、文庫本にして数冊分冊になんなんとする学術書を著するほどの力量があれば、「中心文化」と「周辺文化」を、自分のオリジナル概念として提示することができるかもしれないという、ま、妄想である。

だがひょっとしたら、そのような概念はすでに誰かによって提唱されているかも知れない。もしご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。できれば著書名とともに。もっと言うと、分厚い専門書は私の手に余るので、新書が出ているとありがたいです(情けない

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