🍉しいたげられたしいたけ

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お百度参り四社め(45/100)

休日の半日ほどを費やして、勝手にやってるお百度参りのシリーズです。

前回の記事はこちら。目下、神明社というところにお参りをしているのだが、気まぐれで百度石代わりの折り返しを戦人塚という史跡に変えて、さらに気まぐれで戦人塚前で『般若心経』を読誦してみたら、『般若心経』を40年間間違って覚えていたのに気づいたということを書いた。

watto.hatenablog.com

今回も、その戦人塚から参拝スタート。拙宅から近いので。

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記憶の修正のために、今回も般若心経を読誦してみた。

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そもそも暗唱するって、どういうことだろう? 自分で暗唱しているのに、そのシステムが自分でわからない。あるフレーズを口から出すと、次のフレーズが自動的に準備されるのが自覚できるというだけだ。こういうのを「舌に残っている」と表現するそうだ。

そして間違って覚えていたところは、きっちり間違って覚えたフレーズが準備されている。それを意識的に訂正するという余計なプロセスが必要になるのだ。

このトシになって、修正は効くのだろうか? 実生活で般若心経の暗唱が必要になる場面があるとは思えないが、間違ったまま放置というのも気持ち悪いし、知的好奇心の対象としてちょっと興味深いので、しばらく試してみよう。

ときどき書いている通り、弊ブログでいう「知的」とは「体を動かさない」程の意味で「知能の優劣」のような含意は一切ない。今回は動かしてるけど。

 

すみません、他人にとっては、どうでもいい話ですよね。

どうでもいいついでに、他人にとってはどうでもいい個人的な事情の開陳を続ける。

私はなぜか『般若心経』のほかに『観音経』、『正信偈』、『阿弥陀経』の暗唱ができる旨を、前回のお百度参り記事 に書いた。

『観音経』は、今から40年以上前、ベストセラーの『般若心経入門』に続いて祥伝社が同じ NON BOOK のシリーズとして出した『観音経入門』というのに、全文が載っていた。

新装版は、今でも新刊が手に入るようだ。 

観音経入門(祥伝社新書204)

観音経入門(祥伝社新書204)

 

当時、小学生だった私は、父親が買ってきたこの本を読んで、『般若心経』のときと同様に、暗記できないかと試してみた。子どもはヘンなことを考えるものだ。今でもヘンなことばかり考えているが。

このときは挫折した。憶えきれなかった。

『般若心経』は276文字だが、『観音経』は2062文字もあるからだろう。人間の能力には限界がある。どこかで挫折するもんだ。

40を越えてから、再び仏教に興味を持った。残念ながら、参禅など修行の機会には恵まれていない。あくまで書物の上での勉強のみである。

岩波文庫で『法華経』を読んだりした。『観音経』は『法華経』の一部である。第二十五品(=章)「観世音菩薩普門品」のうちの、さらに偈文(≒詩文、韻文)の部分だ。

子どもの頃と成人してからの違いは、多少なりとも漢文が読めるようになったことである。

不思議なことに、「次は巨海を漂流するのだな、次は須弥山から突き落とされるのだな」と意味を覚えていると、暗記の手助けになったのだ。こうして再チャレンジの結果、『観音経』も暗唱できるようになった。つか何で再チャレンジしようと思ったんだ私は?

ただし『般若心経』と違って「舌に残っている」という感じではない。思い出し思い出し、つっかえつっかえしながら何とかしまいまで暗唱できるというレベルである。暗唱と言っても、さまざまなレベルがあるものだ。

『観音経』を暗唱しなければならない機会は、実生活において『般若心経』を暗唱しなければならない機会より、さらに少ないであろうから、これでいいのだ。

『おんな城主 直虎』で、あまりに悲惨なシーンでは、TV画面に合わせて口中で誦したけど。身代わりの無関係な子どもを殺す場面とか。

 

ところで、あまり他人が言っているのを見たことがないが、私の印象として、『法華経』、『阿弥陀経』などの経訳者である鳩摩羅什の漢文が、日本語に与えた影響は、どえらいものがあるように思う。素人の私にでもわかる気がするほど鳩摩羅什の漢文が理解しやすいのに加えて、全国津々浦々の寺院で『法華経』、『阿弥陀経』などの経典が、何世紀にもわたって読誦され続けてきたのだから、影響を受けないわけがないのだ。

例えば「一に勉強、二に勉強、三四がなくて五に勉強」などと言うときの(言わないか今どきは?)「三四がなくて」の語源は、鳩摩羅什訳『金剛般若経』に出てくる「一仏二仏三四五仏」というフレーズに違いないと思っている。ただし検索しても、そういう意見はヒットしない。 

當知是人不於一佛二佛三四五佛而植善根。
まさに知るべし、この人は、一仏二仏三四五仏において善根を植えしのみならず…

中村元、紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)』P52

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

 

 

ともあれ、お参りの写真を。

神明社の鳥居。

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拝殿。

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摂社末社。

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おや、今日は扉が閉まっている。連休は摂社末社もお休みなのかな?

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連休と言えば、大型店舗が並ぶいつもの国道一号線沿いの参拝路は、いつに増して駐車場に出入りする車がひっきりなしで、どうも落ち着かない。

少し遠回りになるが、住宅街の中の道を歩いてみた。

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神社の杜は、角度を変えると、こんなふうに見えた。元々は丘陵地だったところを、道路を切り通したり宅地開発したりして取り残されたということが丸わかりだ。

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裏口(?)から侵入。拝殿が右真横から見える。

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拝殿の右手には「社務所 多目的ホール」と看板された建物があった。

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しかしこの経路は、車通りが少ない分安心ではあったものの、直線距離はさらに若干遠くなったようだ。

今回はこうして自分でハードルを上げてばかりいる。

雨が落ちてきたこともあって、参拝回数は10回。トータルで45回。急ぐつもりはない、回数を稼ぐことが目的ではないと言いながら、遅々として進まぬ感はある。

気の早い常夜灯が点灯していた。

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