- 作者: 城繁幸
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2004/07/23
- メディア: 単行本
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実は私のかつての勤務先が富士通のいわゆる「同業他社」の一つで、富士通の勤務のすさまじさは聞こえていた(田原総一郎『日本コンピュータの黎明』(文芸春秋社)や『プロジェクトX』でとりあげられた伝説的富士通社員・故池田敏雄氏のエピソードなども含めて)。「うちもきついけどあそこに比べたらまだマシだ」というニュアンスで語られることが多かったような気がする。
読みどころは第三章以降の具体的なエピソードが次々と紹介されるくだり。「成果主義」導入後、プロジェクトの度重なる遅延のため客先から契約解除されたり賠償請求までされたり(p100)、あるいはリストラ担当者が自殺したり(p108)、はっきりと「成果主義」の悪影響ばかりが明らかになったにもかかわらず、それを導入した責任者たる本社人事部の自己評価は「A」ばかりであったという(p152)。
善悪や正誤がわかりにくくなったと言われる世の中で、これだけわかりやすいと部外者はなんだか(語弊はあるが)安心したようなヘンな気分になる。もちろん組織内部の人間には、たまったものではないということもよくわかるが。
思うに企業や組織には、給与や勤務時間のように数字で計れるもののほかに、何と言うのか、社員に対する好意・悪意というべきか「やさしさ」・「意地悪さ」というべきか、計るべき数値もモノサシもないが「ある」としか言いようのない属性が確かに存在する。社員はいつでもそれを敏感に感じながら仕事をしているのである。
もしこの計れないものを計るモノサシがあったとしたら、富士通にせよ私のかつての勤務先にせよ、目盛りは「悪意」「意地悪さ」のぎりぎりの方まで振れていたのではないかと思う。まあそりゃ、「仕事」という本来人間が望むとは限らないものを強いるためには、ある程度仕方のないことではあろうが。しかし、そちらの方を手付かずにして「成果主義」にせよ何にせよ新しい管理方法を導入しても、従業員は「ああ、俺たちをいじめる新手の手段か…」としか思わなかったであろう(こうやって文字にしてみると我ながら青臭いことを言っているなと思う。だが例によってそう感じてしまう自分の感性もイヤ)。
もし富士通さんが制度の手直しを検討するのであれば、なんにせよ目盛りをちょっとでも「社員に対する悪意」「社員に対する意地悪」とは反対方向に振らせるようなものにしてみては?社員は「おや?」と思うかも知れませんよ。
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