🍉しいたげられたしいたけ

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晴|日記

あさひだるま寿司という

チェーンの持ち帰り寿司店で寿司を買ったら、けっこう美味しかった。普段スーパーのパック(それも値引きタイムに突入したもの)か回転寿司しか食べないので、特に湿気ていない鉄火巻の海苔が香り高くて感動した。にぎりと鉄火巻で合わせて千円とちょっとと安いのもよい。これからもたまに買って帰ろう。
え?寿司屋?なんですかそれは?
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加藤徹『西太后―大清帝国最後の光芒』(中公新書)

浅田次郎『蒼穹の昴(1) (講談社文庫)(4)』『珍妃の井戸 (講談社文庫)』の読者には、時代的にどんぴしゃストライクの本が出ましたよ。しかも中国史モノでは定評のある中公新書から。という訳でさっそく読んでみた。
西太后は現代中国では希代の悪女とされさまざまな伝説が渦巻いているが、著者は史料とつき合わせて史実でないものは次々と退ける。例えば有名な「葉赫那拉(イェホナラ)の呪い」(ヌルハチに滅ぼされた葉赫那拉氏の首長が「わが子孫が女子一人でも残れば必ず清を滅ぼすであろう」と呪ったという話。西太后は葉赫那拉氏)は俗説で、葉赫那拉氏はヌルハチに優遇されていたという(p15)。映画『西太后』に登場する、皇帝の寵妃の手足を切断して生かしておいたというエピソードも、フィクションとのこと(p56)。
と紹介すると、いかにも歴史学者の書いたらしい堅い本のように想像されるかも知れないが、著者の分析は「あれあれ?」と思うほど大胆である。西太后にとっての憧れの女性は、清朝最盛期の乾隆帝の生母・崇慶太后であるとする(p125)。乾隆帝は親孝行で国家財政を注いで母親にあらゆる贅沢をさせ、とくに崇慶太后の六十歳、七十歳、八十歳の誕生祝いは国家行事として盛大に祝わせたという。そして著者は次のように書く。

 男にとっての権勢とは、自分の意志を国の隅々まで行き渡らせ、思いどおりの国造りをすることである。しかし西太后にとって権勢とは、ずばり崇慶太后の再来になることに尽きた。

(p128)
しかし運の悪いことに西太后が五十歳のときは清仏戦争、六十歳のときは日清戦争、そして七十歳のときは日露戦争がちょうど勃発し、西太后の夢はついに見果てぬ夢として終わったという(p259)。
他にも清末の洋務運動と呼ばれる改革を「開発独裁」と位置づける(p183)あたりはユニークで面白いと思うのだが、王朝の平均寿命が二百数十年であるという経験則を人口増加の側面だけから論じるくだり(p165〜166)などは、いささか乱暴だと感じないではいられない(洋の東西を問わぬ王朝の平均寿命の奇妙な一致は、当然ながらいろんな論者のいろんな議論を喚起している)。そうやって考えると繰り返し変奏される「西太后の望みは崇慶太后となること」という主旋律も、現に西太后が自分の大寿の祝いを国家行事として実行できたことは一度もないので、検証のしようがないではないか。
歴史学者はこういうことをあまりやらないんだけどな、全然やらないわけではないが、一冊の本全体にちりばめたりはしないものなんだがな、と思って「あとがき」や巻末の著者紹介を読むと、この著者はプロパーの歴史学者というより京劇の研究など民俗学のようなことをやっている人らしい。歴史学のようなメジャーな学問は、手堅い反面退屈である。一方それほどメジャーとは言えない学問ジャンルになればなるほど、やっていることは怪しげになるが読む側からするとそちらのほうが面白かったりする。