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黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』(講談社選書メチエ)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

再読。しかし初読と変わんないわ。前に読んだときのことを全然覚えていない。
しかも、一通り読み直してはみたけど、理解が全然十分とは言えない。特に『純粋理性批判』成立後を追った第3章。イエナ期ヘーゲルによる「カント(感性と悟性の)二元論批判」なんて話題が登場する。多分これがヘーゲルの一元論につながり、その一元論というのがまた三浦俊彦『ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 (975))』にラッセルによって批判されたと書かれているもののようなのだが、つまりカント以後の哲学史において大変重要なことのようなのだが、いかんせん視線が活字を上滑りして、意味が頭の中に入ってきてくれない。
いや、言い訳をすると、それ以外の部分では、何が書いてあるかそれなりに理解できた(と思った)ところもあるんですよ。
例えばp114あたり、「真理とは何か」という問いに対して、カントは問いの中に自家撞着が含まれ問い自体が無意味であることを、鋭く抉り出す。そのあたりを、正確さを落す結果になっても、自分の言葉で説明しなおしてみよう。
例えば「雪は白い」という文が真理であるのは、「雪」という対象、ちょっとズルして後世の二分法を援用させてもらうと、「雪以外でないもの」つまりもちろん空から降ってくる雪以外の雨とかみぞれとかヒョウとかではないし、空から降ってくる以外のものでもない対象としての「雪」であるのだが、その「雪」が、「白い」という属性、これも二分法を援用させてもらって、黒とか赤とか青とかの白以外の色ではないし、さらには色以外のものでもない属性との対比としての「白い」という属性を有するということである。
つまり「真理」とは、種々個別具体的な対象に対し、千差万別の属性をあてはめて初めて確定することであり、その意味で一般的・普遍的な「真理」を問おうというのは不可能であり不合理である…
(はい誤読してるとか全然不正確だとか指摘があったら突っ込んでくださいよm(_ _;)m)
ともあれ、学者先生というか専門家の存在というのはありがたいもので、『純粋理性批判』の前史や後日談を自力で調べようと思ったら大変なことである。「『純粋理性批判』も読む」のシリーズを続けている間、この本とあと何冊かの本を手元に置いて、ときどき参照させてもらおうっと。