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カント『純粋理性批判』も読む

ちょっと間が空いてしまったけど、前回の茶々入れに自ら訂正を加えると、テレビのクイズ番組の正解というのは「経験」により与えられるものの部類であり、形而上学の守備範囲ではない。形而上学とは(『純粋理性批判』の序文の、ここまでの部分による限り)、経験というものを超えて人間に与えられる精神活動の学なのである。
篠田訳『純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)』p18の一行目からは、一転してカントは謙遜の辞を述べる。
世の中には、心の単一性だとか世界の始まりだとかが必然であることを証明した、などと主張する本がいくらでもあるそうだが(そうなのか??)、カントは自分の言い分がこれらの著者に比べて比較にならぬほど穏やかだと言う。なぜならカントは、そのような主張は人間の認識を実際に経験できる限界を超えて拡張しなければ不可能であるが、そんなことは自分の力の及ぶところではないと言うのである。
ここのところ、物理学関係の一般向け解説書をいろいろと読んでいる。現代物理学は、まさしく人間の認識を、ミクロにもマクロにも、過去にも未来にも、次々と限界を打ち破って拡張しようとする学問である。例えばミクロの例を取り上げれば、物質を、人間には決して見ることのできない分子や原子に還元し、それでもまだ足りず、原子は原子核と電子に、原子核は陽子と中性子に、陽子と中性子はクォークに、クォークは超ひもに…と次々と分解する。
それはそれで極めて有意義なことだと思う。しかしここで疑問が生じる。
「あるものを分解して別のものを得る。その別のものを分解してまた別のものを得る。こうした行為には限りがないのではないか?」
この疑問には、「無限後退」という名前までがとっくに与えられているようである。そしてこの無限後退は、どこにでも出てくる。マクロの方向にも、時間の方向にも。
ここに形而上学の出番があるのだろう。物理学は経験の学である。人間を物理学に駆り立てたり、またその人間が自ら作り出したものであるはずの物理学に疑問を抱かせたりする心的作用を、メタな立場から取り扱おうとするのが形而上学なのだろうか…

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)