なんか唐突にわかったような気がした。詳細に、精密に論ずるには時間が必要なのだが、とりあえず備忘的に。
「宇宙の果て」とか「時間の起源」とか「物質の究極」とかに迫ろうという行為は、いずれも本質的に無限後退の危機を内包する。以下、簡単のために「宇宙の果て」のケースだけを例に挙げて論ずると、ぶっちゃけ「もしここが宇宙の果てだとわかったとしたら、その外側はどうなっているのか?」という問いが常に現れ続けるのではないか、という疑問やね。
しかしこの「宇宙の果て」を合目的的に問うという行為とは何かということに考察を加えると、実はそれは常に、我々の目の前に現出する現象になんらかの解釈を加えるという行為に他ならない。あるいは、未知のorそれまで気づかなかった現象そのものを、我々の目の前に現出させようとする行為に他ならない。
ということは、それはテニスがより上手くなろうとすることとか、ギターをもっと自由に演奏できるようになろうとすることとかと、本質的になんら差異はないのではないか!?
だよね??(ここのところを、他人にわかるように説明するためには、かなりの分量の文章が必要になろうことは自覚しているのだが)
つまり人間の行為は、科学であれビジネスであれスポーツであれ芸術であれ、進歩を続けようとする限り、具体的な行動による努力を続ける限り、その本質には差異はない。そしてそれはいずれも等しく有意義なことなのである(もしいずれかを有意義であるとすることが可能であれば、という前提の下でだが。そしてこの前提は真っぽい)。
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