唯識というのは、言葉通り、ただ意識だけが存在するという思想。一切は阿頼耶識〔あらやしき〕と呼ばれる根本が生み出したものであるとする(いらんことだけど、阿頼耶識という言葉は三島由紀夫の『豊饒の海』の後半でよく出てくる)。
こういう考え方は、例えば現象学であるとか(私は竹田青嗣の易しい一般向け解説書の範囲でしか知らないんだけど)、あるいは最近やけに売れている茂木健一郎のクオリア理論などと、似通っている。
そしてこうした唯心論的なアプローチが、ある種の哲学的な悩みを解決するのに、特効薬的とも言える効力を持っていることも知っている。「宇宙の果て」であるとか「時間の始まり」であるとか…西洋哲学では多分カントが最初に気づいたことなのだが、このような問いの無限ループ的な構造は、問い自体の中に内包されているのである。
「宇宙の果て」や「時間の始まり」に、神経をすり減らすほど悩んだ経験のある人はそんなに多くはないかも知れないけど、「死」の恐怖が常に念頭を離れず苦しんでいる人は、割合的にはもう少し多いはずだ。
例えば、「私は死んだら地獄かそれとも極楽かどちらに生まれるのだろうか。それとも全くなくなってしまうのだろうか」と言葉で考えたとします。そのとき、この考えの中には「私」という存在と、死後という「時間」と、地獄・極楽という「空間」とが、それがほんとうにあるかどうかを深く思索し、反省することなく、言葉によってつくり出されています。つくり出すだけならまだよいのですが、そのように考えて、恐れ不安がるところに問題があるのです。
静かに心の中に生じる言葉に意識を集中し、それが対象を言いあてているか、否、対象そのものであるかどうかを観察してみましょう。すると言葉は対象そのものとは全く別のものであり、決して対象そのものを言いあてていないことに気づきます。
ほんとうに言葉が一切をつくり出しています。しかも、つくり出された「もの」は本来的には存在しないものなのです。
(p138)
ただし唯心論的アプローチにも落とし穴があって、一つは「独我論」という別のアリ地獄にはまり込む可能性があることと、もう一つは「利己主義」あるいは「反社会性」を、なんらかの形で克服する必要にせまられることである。
本書がユニークだと思うのは、そのために「無我」=「自分というものは、実は存在しない」という主張を持ってくる点である。西洋哲学でも「他者」は重要なテーマなのだが、本書の場合、「無分別智」すなわち「他者と自分を区別しないという知恵」によって、他者と自分を接続するのである。いかにも仏教的な考え方だなという気もするし、またこれはドグマなのではないかという疑問も生じる。ドグマのない宗教は存在しないと言ってしまえばそれまでなのだけど。
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